「仕事くれはりました」

去る3月25日に河内道明寺(大阪府藤井寺市)住職六條照瑞御前様のご葬儀が行われました。通夜・葬儀両日、1000人余りの会葬者が御前様のご逝去遠悼みました。寒くなく、暑くもない穏やかなお天気で、満天の青空、そして満開の桜でした。まさに御前様の人徳のなせる技でした。

御前様はまことに快活で、清楚で、爽やかで、温かい方でした。まさに春風のような方でした。満100歳のお誕生日を3月にお迎えになられ、同月25日にご自身のお部屋で安らかにご逝去なさいました。近年稀に見る大往生でした。

ここ数年コロナのためにお目にかかることが叶いませんでしたが、昨12月に親しく2時間余りお話をさせていただいたのが最後となりました。そして1月に発刊されました全日本仏教尼僧法団の季刊誌『花はちす』に瑞御前様のことを執筆させていただきました。3月には満100歳のお誕生日をお祝いされたと伺いお喜び申し上げた矢先の出来事でした。


私にとっては公私にわたり格別ご縁をいただき、またご高配いただき、多くのことをご教示くださいました。私にとりましてはこの上もない大恩人でした。本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。

道明寺様と木津家は、先代住職の六條照傳御前様が木津家3代聿斎宗泉の門下で、照瑞御前様は4代花笑斎・5代柳斎に茶の湯を師事され、後に家元直門となられました。道明寺には聿斎の設計になる書院と茶室があり、その襖紙は貞明皇后から御下命を受けて青山の大宮御所の御茶室秋泉亭の襖に用いた唐紙で、御所の御茶室が戦災で焼けて今日同寺にのみ残されています。






私が家元の内弟子になった時から、御前様には格別ご高配をいただきました。御前様のお世話で家内との縁を結んでいただきました。長女が私の厄年の時の子であったことからその拾い親になってくださいました。また木津家に入家される時に積極的におすすめくださいました。私の茶会や茶事にもしばしばお越しくださいました。公私にわたり大変お世話になりました。また多くのことを学ばせていただきました。本当にありがたいことです。厚く感謝申し上げます。

通夜で冷泉貴実子様と家内とお参りさせていただき、葬儀には家元夫妻と父露真と共にお参りさせていただきました。帰宅して半白の茶事を黒谷西翁院で催した際、私が海老の絵を描きそれに「福玉のまろく大きくはなやかに」と賛を着けてくださった軸を床に掛け、冷泉さんでいただいた赤の八重椿に庭の白桃を入れ竹円窓花入に入れました。


そして粗供養のお菓子で、宙宝和尚の手作りの茶碗でお茶をいただきました。茶碗には「枯木花開劫外春(枯木花開く劫外の春)」と和尚の筆で書かれています。枯木に花が咲いています。私はこの茶碗に御前様が重なります。それは時間を超越した境地、四季の巡りを超えた永遠の「春」であり、大悟そのものです。

お花がとても大好きな方で、また華やかであり、そして清楚でお美しい方でした。尽きぬ思い出が走馬灯の如く蘇りました。

改めてご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。


最後に、『花はちす』に掲載された文を以下にご紹介します。


『仕事くれはりました』

御前様とのご縁

今年三月、道明寺ご住職六條照瑞御前様は満百歳を迎えられました。尼僧としてかつて前例のない最高位である大僧正に叙せられ、千三百年にわたる道明寺の法燈を守り伝え、多くのみなさまから尊ばれ、今もお元気にご法務に携わられています。

御前様とのご縁を頂いたのは、今を遡ること三十四年前、私が武者小路千家先代家元有隣斎うりんさい宗匠のもとに住込み修行をしていたときのことです。御前様は家元の直門長板ながいた会に所属されていて、宗匠のお供で御稽古に伺ったときであります。それ以来、公私にわたり格別お世話になって今日に至っています。妻と引き合わせてくださったのも御前様で、また長女が私の厄年の時に生まれたことから、厄払いということで拾い親になってくださいました。おかげさまで娘は息災に育ち、今は受験勉強に励んでいます。

今日、七代木津宗詮としてあるのも、今から十八年前に義父である二代露真ろしんが私を後継者に乞われたとき、御前様が木津の茶の湯を絶やしてはいけないからお受けしなさいと力強くお勧めくださったことによります。御前様は茶の湯に限らず多くのことを私にお教えくださいました。特に人をもてなす心や生き方についてです。私にとってはかけがえのない師匠でもあります。

御前様と茶の湯

 御前様は旧華族勧修寺経雄かじゅうじつねお伯爵の長女としてお生まれになりました。四歳の時に御母堂様がお亡くなりなられ、御尊父様は十五歳の時、またたった一人の御兄上様も終戦の年にミャンマーで戦死なされ、天涯孤独の身の上となられました。当初は尼僧になる予定ではなく、御尊父様の叔母様である照璟しょうけい和上様が御住職を勤めていらっしゃった道明寺先代住職六條照傳しょうでん和上様のもとで行儀作法などを身につけるために預けられていました。ところがご縁があって、女学校を御卒業された秋、先代和上様の後継者である御附弟ふていとして御出家されることになりました。かつて当時のことを御存知の方から、御前様は「それはそれはお美しいお嬢様で、その緑の黒髪をおろされたお姿に多くの方が涙された」とのことでした。

 その後も道明寺の御住職となられるために、仏教はいうに及ばず、漢学や和歌、小原流の華道等を学ばれました。茶の湯は、先代和上様が私ども木津家の三代聿斎いっさい、四代花笑斎かしょうさいに師事されたことから武者小路千家流の茶の湯を修められました。

当時の道明寺は、天野山金剛寺住職曽我部そがべ様、富田林の越井様、河内長野の吉年よどし様など河内の有力数寄者のみなさんとともに洗心会という持ち回りの会に所属されていました。そうしたことから御前様も私の曽祖父に就いて御稽古をされ、伏見町の木津の稽古場に御通いになられていました。また持ち回りの洗心会では、一番お若いことからいつもお点前をさせられていたとのことです。その後、家元直門の会である長板会に所属なさいました。


道明寺について

 道明寺は学問の神として有名な菅原道真公の祖先にあたられる土師はじ氏の氏寺が起源となっています。往時は七堂伽藍や五重塔のある大寺院でした。

道真公が道明寺に滞在されて御手ずから刻んだと伝えられる十一面観音菩薩様(国宝)を御本尊にお祀りされている古刹であります。無実の罪で大宰府に左遷された道真公が、叔母上の覚寿尼さとしじゅに公をお訪ねになられて別れを惜しんだと伝えられています。


この故事をもとに人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』のモデルとなっています。

覚寿尼公は日々太宰府に向かい陰膳かげぜんをお供えになられ、そのお下がりを病に苦しむ人が頂いたところ、不思議なことに病気が治癒しました。その評判を聞きつけた人々が、お下がりを求め、その願いを叶えるべく、一旦お供えしたご飯をもう一度乾燥して保存するようになったとの由緒が道明寺糒ほしいの始まりとされています。古くは尼僧たちが、畳を上げ、蒸したもち米を室内で十日ほど乾燥させ、再び十日ほど天日干して、それを石臼で粗挽あらびききして作っていたとのことであります。御前様もお若い頃には夜なべ仕事に糒の袋詰めをされていたとの

ことです。かつてこのようにするのですといってその様を見せてもらったことがあります。




 道明寺は、明治元年の神仏分離令により、道明寺と道明寺天満宮に分けられました。照璟和上様は御生家の勧修寺家や一族の再三の還俗復飾の御勧めにも応じず寺に残られ、道明寺天満宮の境内から現在の地に道明寺を移転なさいました。社会的にも経済的にもたいそう不利な条件のなか、尼僧の身で道明寺開山以来の困難を克服して、千数百年にわたる法燈を守り伝え、新生道明寺の再建に生涯御尽力されました。その後、道明寺は先代照傳和上様が引き継がれ、新たに本堂と位牌堂を建てられ、昭和五年に私の高祖父にあたる三代聿斎が書院の設計をさせていただきました。この書院は聿斎が貞明皇后の御下命で東京青山の大宮御所の秋泉しゅうせん御茶室の余材が用いられました。ちなみに御所の御茶室は昭和二十年の空襲で炎上し、唯一、道明寺の客殿にその遺香がとどめられています。そして御前様の手により護摩堂が建てられ、平成六年に本堂の屋根の大改修が行われ、山内の堂舎をはじめ、築地や広い境内、庭園の整備、新たに土蔵も建てられ、現在私たちが見ることのできる道明寺となっています。


忘れ得ぬお言葉

 平成七年、御前様八十三歳の時に御一代の総仕上げともいうべきお仕事として、照璟和上様の百回忌法要を尼僧百名余りを請じて「百僧供養」をなさいました。この法要には明治の厳しい時代を耐え抜いた照璟和上様を現在に生きる尼僧に伝えたいとの思いからでした。また照璟和上様の日記を読み下し本にしたいとの御意向から、私もお手伝いさせていただきました。それは『笹のしつく』と題する書として上梓されました。また当日雅楽の奉仕も務めさせていただきました。本当に名誉なことでありました。

法要終了に際し、御前様が随喜の御出家方はじめ在家の参列者に謝辞を述べられ、道明寺を今日の姿に整備復興をさせ、また先代照璟和上様の百回忌をこのように盛大に勤めることができ、今後はゆっくりと余生を送る旨をおっしゃいました。ところがその一月後に庫裡が炎上するという御災難に遭遇されたのです。

 私はその報を受け、取るものもとりあえず御前様のもとに馳せ参じました。未だきな臭い焼跡の片隅に仮屋が建てられ、そこをお訪ねすると、首に手ぬぐいを巻かれ、泣き尽くしたために兎のように目を真っ赤にされた御前様が開口一番、「仕事くれはりました」とおっしゃいました。私は予測もできないあまりのお言葉にお見舞いを申し上げることもできず、たたずむばかりでした。ついひと月前に余生をゆっくりと生きていくとおっしゃっただけに本当に仰天してしまったのです。なんと気丈な御方かと。男僧でもそのような言葉を発することはできません。それがか弱い尼僧の、それも八十三歳の老尼のお言葉だったのです。一軒の檀家もなく、またどなたにも寄付を募らず、尼僧の細腕で二年後には木造で元の姿に見事再建を果たされました。まさに快挙というべきことです。古今東西このような快挙を遂げた尼僧は存在しないのではないかと私は思っています。


一昨年来の新型コロナ禍により、私の携わる茶の湯をはじめ多くの伝統文化、仏教界、ひいては世の中が停滞を余儀なくされています。存続も危ぶまれている昨今であります。いつの日にか落ち着く日がくることと思われますが、それがいつの日かは誰にも予測が立ちません。そうした中、この御前様の「仕事くれはりました」の御言葉を、私は生涯忘れず励みにしていきたく思っています。また多くのみなさまにお伝えしたくご紹介させていただきました。

ご挨拶にうかがうたびに、まことに手入れの行き届いた清楚なお座敷やお庭に心洗われる思いをさせていただいております。これも御前様の内面から溢れ出す美しさと優雅さ、そしてお強さによるものです。いつまでも、いつまでもお元気で私たちにお力をお与えくださいますよう、切に願い上げます。

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