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ブルーノ・タウト

執筆者の写真: 木津宗詮木津宗詮

 ドイツの建築家ブルーノ・タウトは20世紀の代表的な建築家で、桂離宮を訪れた時に「それは実に涙ぐましいまで美しい」との言葉を残し、桂離宮を世界に広めた最初の建築家です。  昭和7年(1932)10月、ブルーノ・タウト夫妻が伏見町の木津家を訪れ来、3代聿斎宗泉と親しく日本建築についての談義をしています。なお、後日、ブルーノ・タウトの礼状が届いています。


     Kioto, 18. Okt 1933   Lieber Herr Kizu,   Ich mӧchte Ihnen auch im   Namen meiner Frau meinen   Herzlichsten Dank für den gestrig   gen Empfang sagen.   Sie haben uns einen wunder   vollen Einblick indie groβe   Kultur Nihons gegeben. Und   wir haben nachher noch einige   Spuren Ihrer schönen Arbeit   verfolgen können, warden nur   noch mehr von Ihren Werken   ansehen.   Mit bestem Dank, schönsten   Grüβen und allen guten Wün   schen          Ihr Bruno Taut


   1933年10月18日京都にて   木津様   昨日のおもてなしに、妻ともども心からお礼を申し上げます。   日本の偉大な文化の素晴らしい一面を垣間見せていただきました。   そしてそのあと、立派なお仕事の軌跡を図面上で幾つかたどることもできました。   余すところは、木津様のさらに多くの作品を見せていただくことのみかと存じます。   感謝の心を込めて、ご健勝をお祈りいたします。   敬具                 ブルーノ・タウト



 明治6年(1873)に聿斎は12歳の時に単身上京し、東京の元紀州藩藩邸に起居して漢学を学び、翌年に近衛篤麿(あつまろ)の書生となり実業家をめざして励んでいたところ、篤麿から「蛙の子は蛙になれということがあるから、是非前代の跡をつぎ茶人になれ」と言われ、このことが機縁となり茶人になる決意をしました。そして篤麿の勧めで宮内省内匠寮の木子清敬(きこきよよし)に伝統建築について学びました。木子からは建築の部材寸法を実寸法でなく、他の部材との比例(割合)で示す「木割法(きわりほう)」や製図を学びました。同年に東京から帰阪し大徳寺471世で2代管長であった牧宗宗寿(ぼくじゅうそうじゅ)に参禅し、寸松庵(すんしょうあん)や碧玉軒(へきぎょくけん)などの名席の残る大徳寺山内の茶室を実見しています。また、同20年(1887)には桂離宮に泊まり込み、1週間に亘る実測調査をし、畳石の寸法等も細かく記録しています。その翌年には正倉院御物の調査にも参加しています。こうした体験がのちの聿斎の建築設計や作庭に多大な影響を及ぼしているのです。

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