• 木津宗詮

六千八万六十海里

  日本国南東に去ること六千八万六十海里に南蛮国有り、此の国は文明開化、良政の国 

  なり、安政午年中秋長崎港に来たり親交を厚く結ぶなり、珍品多く入国し国中喜ぶなり

 長崎絵師政景観の自画賛「南蠻国渡来黒船長崎八港之図」です。


 政景観については不明です。多分、明治になってから描かれたものではないかと思われます。わたしの大好きな軸のひとつです。長崎絵師とあるから実見しているはずです。それをなんとも滑稽に描いています。外輪船ではありますが、両端の船底が置物の脚状で、微妙な違いはありますが、左右がほぼ左右が対象で、マストにかかる帆はどう考えても「六千八万六十海里」もの航海ができるようには見えません。国旗らしき旗も「青・白・赤」ならフランス、横にして上から「赤・白・青」ならオランダですが、色の配置も違います。また、ドラゴンにしては貧弱で蛇みたいです。薩摩の島津家の「丸に十字」の家紋、そして人物も桃山時代の南蛮人のような服装をしています。本当に長崎の絵師なのかと疑いたくなるような絵です。どのような意図でこんな漫画のような絵を描いたのか、とても興味を持っています。

 「安政午年」は安政5年(1860)のことで、この年に江戸幕府はアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5ヵ国それぞれと修好通商条約を結んでいます。それぞれの国に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、一般に不平等条約といわれます。領事裁判権撤廃が実現したのは、明治27年(1894)日清戦争開戦直前です。第2次伊藤内閣の陸奥宗光外務大臣のもと日英通商航海条約が結ばれ、翌年にかけては他の欧米各国とも同様の改正条約が締結されました。関税自主権を回復できたのは、日露戦争後に明治40年(1907)に締結された日露新通商航海条約で、その後数年かけて他の欧米各国の間に実現しています。なお、睦奥宗光は2代得浅斎と交誼があり、国会図書館の憲政資料室の蔵になる陸奥に宛てた父の伊達宗広が手紙に得浅斎のことが書かれています。また初代松斎宗詮と伊達宗広とも交流があったことが伝えられています。  得浅斎は大変な勤皇家で、志士たちと交わりなから、維新ののちはまったくといってよいほど報われなかった人です。家ではそんなことに熱をあげていたから、茶湯はそこそこであったとされています。だから今日歴代でもっとも好みの道具や自作のものが残されていないとされてきました。ところが最近いろんな人の日記を調査していると、案外そうでなく茶事や稽古を熱心にしていたことが判明してきました。勤皇運動も熱心だったのは間違いないにしても、やはり時代と運に恵まれなかった人だったのではないかと思うようになりました。そんな困難な時代に木津家を支え、次代の聿斎に引継いだ大切な当主であったと確信しています。

 過日の「即位礼正殿(そくいれいせいでん)の儀」には各界の代表や外国の元首など、国内外から合わせて1999人が参列しました。江戸初期に鎖国し、唯一国としての交わりをしていたのが朝鮮でした。そして幕末にアメリカのペリーが来航し、アメリカと日米和親条約を結び200年にわたる鎖国から国が開かれました。そしてそれまで通商のみであったオランダをはじめ、新たににロシア、イギリス、フランスとも国と国の交わりが始まり、今回の即位礼正殿の儀には約180か国の元首や王族、高官が参列しました。


FNN PRIMEより

産経新聞より


 幕末の開国以降、多くに国と親交を深め、政治や思想、学問、技術、多くの文物が海外から伝わりました。そして不幸な時代もありました。紆余曲折はあったにしろ、世界有数の民主的で平和な豊かな国になり今日に至っています。これも幕末の開国という当時としては画期的な政治判断によります。孝明天皇はじめ鎖国論者とアメリカとの板挟みになった井伊直弼をはじめ幕閣は臨機応変の対応をして平和裡に開国しました。それに対し朝鮮は国王高宗の父で摂政の大院君強烈な鎖国論者で徹底的に武力でもって列強を排除する政策をとりました。その後、日本を含めた列強による外圧や支配により不幸な時代を迎えます。清(中国)は朝鮮に比べると比較的緩やかな鎖国でしたが、アヘン戦争はじめ清仏戦争や日清戦争により同様の道を辿ります。私はこの軸を見るたびに、明治の人たちの偉大さも理解しますが、幕末の幕閣の適切な判断が今日の日本の元になったのだとつくづく思うのです。

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