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初代松斎宗詮30 中井正治兵衛

 中井正治兵衛(しょうじべえ)は近江商人のなかで最大の資産を蓄積した中井源左衛門(げんざえもん)家の4代源左衛門光基(みつもと)にあたる。初代源左衛門は行商から店舗販売に切り替え、5万6千両ものの資産を残した近江商人である。代々日野椀や生糸・紅花・漆器・薬の産物回しや、質業および大名貸しの金融業、製紙・酒造業を営んだ。

 光基は水口の大庄屋山村十郎右衛門(じゅうろうえもん)の末子で、三代光煕(みつひろ)の娘綾の婿として中井家に入家して家業に携わっている。ちなみに光基が光煕から相続した資産額は11万両余りであった。

 光基は中井家初代の光武(みつたけ)の遺訓である「陰徳善事」を忠実に守り、日常の生活は質素・倹約に努め、生業で得た富を公共的なことに拠出し、天災・人災により困窮した人々への救恤金の助成や施行を行っている。光基もその遺訓をよく守り、幕末維新の混乱期に多くの寄付金を拠出している。たとえば天保4年(1833)の凶作時には100両を寄付し、同3年(1832)には参詣者の便宜を図るために塩竈神社の参道の舗装に800両を提供するなどを行っている。







他の日野の門人

 矢野庄右衛門と2代矢野覚左衛門はいずれも、呉服・太物・漆器類販売また関東では酒・醤油醸造、販売等を商っていた矢野新右衛門家の分家にあたる。そして藤崎佐兵衛は上野国鬼石町(群馬県藤岡市)で醤油醸造業を営む藤崎佐兵衛家3代の当主で、経営もさることながら、謡曲や生花・囲碁・骨董等にも秀でた人であった。


山村十郎右衛門

 水口の山村十郎右衛門は、水口藩の領民支配を円滑にするために設けられた役人である大庄屋であり、藩の蔵屋敷の蔵物販売の代銀を預かり、その出納や国元と江戸藩邸への送金を任されていた掛屋を商っていた水口の有力商人である。山村九郎治はその養子にあたる。なお、前出の通り、末子の正治右衛門は日野の中井家の婿養子になっている。

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