天保14年(1843)10月2日に松斎は山村家を訪れている。夕食ののち、小習六ヶ条のひとつ入子調と盆香合・長緒等の稽古をしている。翌日から7日まで松斎に関する記述がないため、多分日野の稽古に赴いたと考えられる。再び7日には隅屋常治郎を同道して山村家を訪れている。この日は壷飾と唐物の稽古をし、夜は四方棚を用い、上崎弥作・佐々木友賢両名も加わっている。12日の夜は、池本忠右衛門と佐々木友賢とともに台天目の稽古をし、そのあと酒飯が出されている。
同12日、松斎は卯之助と隅常を同道して山村家を訪れている。十郎右衛門はこの度の稽古の挨拶として、金3千疋と挨拶として金千疋、書付の謝礼に金500匹、外に卯之助に金200匹を贈っている。
そして今回家元が養子をもらうにあたり入用があるので、日野水口の社中に許状を取ってもらうように事前に依頼していたようである。中井源左衛門と正野猪五郎・矢野覚左衛門・山村十郎衛門に台天目と茶通箱の許状を渡している。矢野真右衛門と池本忠右衛門は他行しているので、松斎に春まで立替てもらい、十郎右衛門がその旨の書付をしている。その後、松斎は山村家の新屋敷から出立している。
この記述から、翌年、武者小路千家に新善法寺家から此中斎を養子にもらうにあたり、縁組みにかかる経費に充当するために各地の有力社中に許状を勧めていたことがわかる。
これら日野と水口の門人たちは生業において社会的・経済的地位が共通し、中井家と正野家に限らず広い姻戚関係を持ち、また商売においても密接な関係を有していた。また彼らは茶の湯を通じて同門であり、茶事をしばしば催し、毎月一定の日に持ち回りで月釜の茶会を行って、親交を深め茶の湯を高めていたことがわかる。また、当時は遠方から師を招請し、地域の有力者社中の家に近在の社中が集まり稽古をし、相伝も行われていた。またこの機会に道具の書付や許状の伝達をしていたことがわかる。交通や通信の便の悪い時代の地方の有力社中との関わりを具体的な形でみることができる。
初代松斎宗詮34 『山村日記』2
更新日:2020年3月24日
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