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執筆者の写真木津宗詮

初代松斎宗詮33  『山村日記』1



今日、水口の門人山村十郎右衛門とその先代九郎治と養子の九郎治と3代にわたり、文政5年(1822)より明治9年(1876)までの52年間のうち、44年分にわたる『山村日記(『諸事書留』)』が残されている。その中の松斎に関する記述があり、その動向知ることができる。

 天保6年(1835)3月7日の記述に、松斎が京都の道具商隅屋常治郎(隅常)と指物師市郎兵衛を伴い、石部(滋賀県湖南市)から山村十郎右衛門を訪れている。なお、隅屋常治郎は常に松斎と行動をともにしている。また隅屋常治郎は一啜斎が亡くなったことを知らせたり、利休二百五十年遠忌の折の茶事の案内等、松斎と水口の社中との間に立って諸事周旋している。その後、大津(滋賀県大津市)から大工善兵衛とその別家の源七が山村家に到着している。市郎兵衛は武者小路千家出入りの茶方の指物師で、家元や松斎の好みの道具や茶杓の下削りをしている。また大工の善兵衛は天保10年(1839)の利休二百五十年忌の武者小路千家の大改修の折に、松斎の指図で普請に携わった大工である。

 松斎一行が山村家を訪れた目的は松斎の好みになる茶席を造るためであった。一行は昼食後、新屋敷と呼ばれていた山村家別邸の数寄屋「蔭涼斉」に移っている。善兵衛は事前に絵図面を描いていたようで、十郎右衛門に示し、それをもとに松斎と善兵衛・市郎兵衛、そして十郎右衛門と山本小三たちと茶室の建築についての具体的な打合せをしたようである。このことから十郎右衛門は早くから茶室の依頼を松斎にしていたと考えられる。また、松斎が茶席の設計建築に巧みであったことが評価されていたことがわかる。その後、深夜の12時ごろまで薄茶を飲み酒飯の饗応を受け、その日の夜は松斎と市郎兵衛は山村家の本宅、大工の善兵衛と源七は桝屋という宿に泊まっている。

 翌日は正午ごろに日野の正野猪五郎のもとへ向かった。十郎右衛門は松斎を駕篭に乗せ挟箱持(はさみばこもち)に荷物を持たせ、3名を供につけ、また隅屋常治郎と市郎兵衛・善兵衛・源七にもそれぞれ供をつけて日野に送り出している。十右衛門の松斎に対する待遇が最上級のものであったことをうかがい知ることができる。

 十郎右衛門は隅屋常治郎の勧めで、松斎に九郎治の還暦祝いの茶杓の書付を頼んでいる。このことから交通の不便な時代にあり、箱書や極めを旅先で認めていたことがわかる。なお、松斎は「炉風炉蓋置弐」、隅屋常治郎「白檀三包」の土産を持参している。

 その後、5日間日野に滞在し、14日の夕七ツ時(16時)ごろに山本小三も含めた一行が正野猪五郎と孝之助を伴い日野を発ち、十郎右衛門と喜三郎なる人物他2名が町外れに出迎えに行き、その夜は山村家に逗留したと思われる。

 翌15日には七ツ時(16時ごろ)に、松斎は市郎兵衛と源七を伴い山村家を出立している。若宮前まで十郎右衛門と山本小三・佐々木友賢・孝之助が見送りに赴いている。まさに至れり尽くせりである。

 なお、この時、松斎は十郎右衛門に「七種相伝」を受けるようにすすめている。七種相伝とは「小習六ヶ条」と「唐物点」である。日記には京都の家元で入門すると礼金や祝儀が高くつくので、水口で入門すればそれほどの金額にならないということで、今回正式に入門したとある。十郎右衛は松斎から七種の伝授を受け、その金額は金5両(許状代)で、内訳は七種相伝が3両2分、入門料が1両2分であった。そして松斎に茶杓の書付料として金2分と浅草海苔20枚、市郎兵衛と源七にも浅草海苔を10枚ずつを土産として贈っている。これは、当時の地方における社中に対する相伝のあり方や、「小習六ヶ条」と「唐物点」をひとくくりにして「七種相伝」としていたこと、許状の代金、書付代等を窺い知ることのできるまことに興味深い記録である。

 

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