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執筆者の写真木津宗詮

初代松斎宗詮35 兵庫の門人

 松斎には、兵庫(神戸市)での有力な門人に北風氏がいた。北風氏は、宗家の「六右衛門(ろくうえもん)家」と嫡家の「荘右衛門(そううえもん)家」、分家支流、約10家が存在した。湊川の戦いの時、44代貞村(さだむら)が軍功をたて新田義貞(にったよしさだ)から喜多風(きたかぜ)(のちに北風と改める)の苗字を与えられたとされている。

六右衛門家は、近世に入り兵庫で諸侯の米船や諸国の町船(商船)の宿や問屋、造酒業を営み、兵庫の問屋業の基盤を築き、豪商として代々実子が相続している。のち六右衛門家はそれまでの顧客であった荷主を荘右衛門家に譲り、業務を縮小し、家醸の「千とせ酢」を販売し、それまでに祖先が残した財をもとに明治の中ごろまで続いている。荘右衛門家63代貞幹は蝦夷えぞ地(北海道)の海産物を扱う北前きたまえ交易に進出し、北前廻船の経営で

莫大な利潤をあげている。また天明年間には窮民救済策として湊川川尻の新田開発を行うなど、幕末までに兵庫随一の豪商へと成長する北風家の基礎を築いた。ちなみに貞幹は与謝蕪村や高田屋嘉兵衛を後援している。

 北風両家の当主は松斎の門人で、武者小路千家の茶の湯を嗜んでいた。六右衛門家62代貞章は、天保10年(1839)12月に盆点、荘右衛門家65代貞和は同10月乱飾と翌11月真台子の相伝を受けている。他にも小曾根氏、藤田氏など兵庫の有力者が社中として名を連ねている。

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