初代松斎宗詮36 平瀬家の一族
松斎の門人でありパトロンでもあった平瀬春温は天保10年(1839)に乱飾の相伝を受けている。その一族には、書肆を営む赤松千草屋の平瀬道堅(新右衛門)や、伊勢桑名藩の松平家の用達で平瀬家新宅の平瀬儀超(市五郎)・両替商の冨子思成(亮右衛門)などの平瀬家周辺の者がいる。
そのなかで富子思成の天保13年(1842)正月の記録『天保十有三年壬寅孟春良旦 湯盤銘日日々新又日新』の松斎の記録を見ていく。1月2日、年賀の挨拶に赴き、最期に梶木町の木津家を訪ね、木津家で夕食をとり茶を飲んでいる。床には近衛信尋の新年の試筆の懐紙が掛けられ、直斎好みの矢筈棚に染付の八卦水指、秋田塗の棗、井上道勝伝来の青井戸茶碗が用いられていた。
6日には、松斎と赤松千草屋の平瀬道堅(新右衛門)、林田佐兵衛等と住吉大社に参詣し「五ツ時」すなわち午後8時ころに富子家で酒食振る舞っている。
8日には松斎の点初(初釜)の席に連なっている。連客の忍藩おしはん御留守居の須藤仁兵と同藩の加藤某・平瀬道堅・村井某・そして松斎の代稽古をつとめる堀宗逸の五名である。床の掛物には、松平不昧の「寒松一色千年別」が掛けられている。この軸は松斎にとって最も大切な軸で、江戸からの帰坂の折に不昧から拝領した軸である。竹台子に真の手桶、唐津の杓立、染付の三宝蓋置、そして「尉」と「姥」の銘になる二つ入りの師匠一啜斎手造の茶碗が用いられている。なお、桑の神折敷も一啜斎好みの炭斗である。香合は紀州藩や千家での付き合いのある表千家の吸江斎の好みの菊置上を用いている。不昧や一啜斎、吸江斎等格別に縁の深い物を取り合わせている。なお、この日、平瀬道堅が正式に入門するということで、富子思成が同道して連客に加えている。