『鐘奇斎日々雑記』の嘉永7年(一八五四)9月2日に、
二日 晴
木津氏正午茶湯 森三折・拙・藤井・
梅中・広市
床 沢庵文 八月十二日泉南へ江月和
尚・滝本坊適ト□□□遠州ゟ茶事
申参下只一夜老拙語申候余草臥今
不来候此度の名残のミして望月の
□曳とむる朝もなけれバ、十六日、
宗彭(花押)
風呂 播磨 尻張
釜 天猫 大たれ
香合 キンマ 藤の実形
花生 青南京 のきく(絵)
一翁好炭斗
木津好玉川焙ろく
水指 左入 赤(絵)
茶入 ツリ柿 一啜写 十之内
大津袋
茶碗 (絵)中ニハケ目アリ イラホ
茶杓 長のし 元節 好々斎
建水 曲
薄茶入 水口 瀬戸
茶 綾の森
会席 山崎盆 一文字椀
新瀬戸 木津好
向 □ば そりて □□て (絵)
合セミそ
汁 結ゆは なすひ三
坪 鴨丸叩三 はも□身かけ □□け
八寸 海老の身 銀なん
直斎紅溜
吸物 茗荷 梅干
強肴 かれ
一閑縁高
菓子 菊の香
香もの
フチ高
惣かし □□
この記録が、今日確認できる松斎にまつわる茶事の最後のものである。松斎の古稀を記念して催した茶事であったと考えられる。得浅斎や家族の助けを受けつつ、まさに老体に鞭を打っての茶事であったのではないだろうか。
この茶事のほぼ4か月後の安政2年(1855)1月1日に松斎は78歳で没している。まさしく最後の茶事である。好々斎から贈られた茶杓「長熨斗」に年賀の意を込め、50年近く精進してきた自身の茶の湯の行き着いたわび茶の境地を表わした古稀の翁の道具組である。大徳寺の拙叟宗益が着賛した松斎の肖像画に次のような文言がある。
太平時節
茶事生涯
還郷一曲
自納些々
洞雲拙叟又題(印)
願泉寺に生を受けてその住職となり、雅楽伝播のために単身江戸に下り、松平不昧の薫陶を受け、一啜斎に師事して武者小路千家の茶の湯を極め、茶の湯に生涯を置き、好々斎没後、以心斎と武者小路千家を支え、徳川治宝や尊応入道親王より過分の栄誉を受け、流儀の流布に東奔西走する、まさに茶の湯にすべてをかけるという生涯であった。そして本来の姿に戻った時には、こんなことはほんの些細なことでしかなかった。最後はそうした境涯であったのであろう。
この肖像画は熨斗目の小袖を着流しに着し、その上に十徳を羽織り、腰に脇差を差して茵に凛と座る姿である。当時の茶人としての最高の礼装である。以心斎の後見として利休居士の遠忌を勤めた頃の面影を描いたものであると思われる。着賛している拙叟宗益も同じく遠忌の法要に参列し、同時代を生きた和尚である。また、息子の得浅斎の参禅の師でもある。それらのことから松斎の生涯や境遇を十分に踏まえた賛であることがわかる。表装の裂地は松斎が生前に着用していた十徳と帯が用いられている。また、絵師も同時代の人であるから松斎の姿を実見していたであろう。肖像画というものはその絵を見ただけで誰の姿が即座に判る作というのが基本的な条件である。この絵は肖像画をはじめ賛も表装もすべてが備わっている。得浅斎や妻のりゆうはじめ、家元関係者や大徳寺の和尚方、門人たちがこの肖像を見ればまさにそこに松斎が座していると感じるものであった。だから私たちはこの絵に在りし日の松斎の面影を間違いなく見ることができるのである。
同年の2月5日に本葬が執り行われ、京都から以心斎も参列し、3月2日には妻の柳(教深院貞寿)も松斎のあとを追うように亡くなっている。
松斎は得浅斎を養嗣子として迎えているが、天保2年(1831)6月二18日に亡くなった仙次郎(寿仙)という息子がいたことが確認されている。
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