以心斎が失明し、義母の宗栄は悲嘆に暮れ髪を落として尼になりたいと大綱に訴え(12月5日)、諌められて断念している。また最晩年の一啜斎も、多大な期待を抱いていた好々斎に先立たれ、新たに迎えた以心斎も目が不自由となったことで、落胆の日々を送ったものと思われる。そして翌天保9年(1838)4月16日に76歳で一啜斎は亡くなっている。
そうした中、天保10年(1839)に利休居士二百五十年遠忌と追善茶事が行われている。50年毎に営まれる利休の年忌は、千家にとって最も重要な行事の一つであるが、二百五十年遠忌は一年繰り上げて前年すなわち天保10年(1840)の9月27、28の両日に、三千家施主による法要が大徳寺聚光院で、29日には大徳寺主催になる法要が大徳寺方丈で執り行われている。また武者小路千家では、10月1日から追善茶事が家元において催されている。遠忌にあたり、高松屋敷の京留守居と大徳寺一山・表千家・裏千家に了承をもらい、松斎が以心斎の手をとって9月23日に真台子の返伝を行っている。
松斎が利休二百五十年忌の折に記した「利休居士弐百五拾廻忌之節諸事扣」(以下「諸事扣」)に、和歌山で治宝の命による仕事を終えて大坂に戻り、9月19日の夜に船で上京し、翌20日より破損していた武者小路千家の建物の修繕普請を昼夜分たず行っている。大工善兵衛、手代源七、左官次郎三郎、植木屋一兵衛その他畳屋、手伝い等を総動員して修復が進められている。また露地も松斎が整え、短期間でこれらの修復を行ったことに人々が感心したと記している。そしてこの間に10月1日から官休庵で、宗栄が茶事を催すに当たり、大徳寺一山の和尚たちと日取りの交渉をしている。なお、妻の柳と得浅斎も夜船で上京している。

右より一啜斎・好々斎の墓

利休忌 聚光院閑隠席の床

聚光院千家墓域の利休墓


現在の武者小路千家
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