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初代松斎宗詮22 利休二百五十年遠忌追善茶事

更新日:2019年10月5日

 武者小路千家では追善茶事を、10月1日から11月20日まで六十二会を催している。このたびの追善茶事では、由緒ある名物で利休遺愛の長次郎作木守きまもり茶碗(6代真伯が高松侯に献上)を用い、多くの人に披露して往時を偲び、より意義深い催しとして、武者小路千家の家名を輝かせたいとの内容の願書を高松藩に提出・許可が下り、9月の参勤交代で高松侯が伏見を通過する時を見計い、伏見の本陣まで松斎一同が拝借に赴いている。松斎の「諸事扣」には、茶事の約束は向う30日まで決まっているにもかかわらず、希望者が多数殺到したため、日夜の別なく断ったところ、せめて木守茶碗と官休庵だけでも見せて欲しいとの希望が追々出たようで、朝五ツ時(午前7時)頃に、露地口より官休庵に案内し、床に利休居士の画像を掛け、香炉と卓を置き、木守茶碗は床脇に黄帛紗を敷いて飾り、拝見させている。そして松斎が炭点前をして茶事と同じ菓子を出し、松斎の点前で薄茶を点て、その後は露地から半宝庵に通している。茶事の期間中、この朝の内の拝見と薄茶一服を20会余り行ったようである。なお、初会の前日の9月晦日には、鴻池家の別家である草間伊兵衛(くさまいへい)と楽旦入(たんにゅう)による木守茶碗拝見の所望を受け、薄茶と酒肴を出して見せており、本歌を実見した旦入は写しの茶碗を造っている。

 茶事については、『諸事扣』によると、10月1日から6日まで大徳寺一山の和尚方、7日より社中を招き、11月20日まで62会を催している。表裏の両千家については11月1日に裏千家の玄々斎、速水宗筧(はやみそうけん)、中村宗哲。同11日は表千家吸江斎、住山楊甫、駒沢利斎、楽旦入。同13日は玄々斎室おまち、認得斎後室宗仁、岩佐宗儀、侍善八。同14日は吸江斎室きと、森田ちせ、住山ちく、永楽了全の顔ぶれで、それぞれ両千家の男女を分けて2会ずつ招いている。また「諸事扣」には、松斎に家元や他の千家、大徳寺の和尚方等から以心斎に変わり茶を点てるように要請があったようだが、好々斎の未亡人である宗栄が「利休居士の血脈」、すなわち利休の直系の子孫であることから、松斎が大徳寺や表千家に相談し、宗栄に茶事をするように取り計らっている。もっとも茶事が十分にできないと言う宗栄に、松斎が万事段取りをするということで承知してもらい、茶事を催したようである。『抜録』には、迎付と懐石の給仕、濃茶を宗栄が、薄茶を松斎がつとめた旨が記されている。

 「諸事扣」によれば、床には長谷川等伯筆になる伝来の利休居士画像が掛けられた。宙宝宗字(ちゅうほうそうう)の箱書に「表褙菊桐繍紋絹者豊臣政所御服」とあり、豊臣秀吉の北政所が着用した菊桐紋の刺繍を施した裲襠(りょうとう)の裂で表具をしている。そしてこの利休画像に以心斎が真台子で茶湯をするのであるが、特に高松藩京留守居役と大徳寺一山、両千家の了解を得て、松斎が以心斎に真台子の伝授を行い、「宗守の手を拙が持添て居士の像へ御茶道被致申候也」という形で茶湯を供えている。画像の前には唐物黒無地の卓に宋時代の古染付の香炉が置かれ、高松侯より一翁が拝領した「龍田」という銘の伽羅が焚かれている。後座には真塗丸板に青磁柑子口花入を載せ、茶事の期間中、毎朝大徳寺から到来した白椿二輪が入れられた。そしてその前、右の方に黄帛紗の上に木守茶碗が飾られた。なお、木守茶碗は相続や遠忌の茶事等の吉祥に際し、高松侯より拝借することが嘉例となっていた。この遠忌では三千家ともに記念として造られた道具を互いに贈り合っている。吸江斎は大徳寺の五老松の古材で、春斎(しゅんさい・7代駒沢利斎。指物師だけでなく塗師としても活躍し、了々斎より「曲尺亭」、吸江斎から「少斎」の号を授けられ、「駒沢家中興の祖」といわれた)に造らせた利休形大・中・小の黒棗に利休の辞世の一節「力圍希」の三文字が一字ずつ漆書きしたものを好んでいる。なお、このたび新調した聚光院の戸帳に用いた残り裂の緞子で仕服が仕立ている。また玄々斎は茶碗を手造りしている。この茶事では吸江斎の大棗と玄々斎の「尚古」という銘の黒茶碗が用いられている。茶杓は利休作で共筒、一翁の替筒が添い、真伯の箱書がほどこされたものが使われている。このように今回の遠忌を記念して新たに造られたものや、利休と所縁の深い道具を取り合わせて、利休を偲ぶ内容となっていた。なお、『諸事扣』には、武者小路千家では以心斎が幼年であったため、記念の好みの品を造ることができないので、これまで伝わる形の品を造って贈ることを松斎が提案し、以前に大徳寺より贈られた「五老松(ごろうまつ)」の古材を用いて、利休好みの松木盆を写させたとある。そしてその盆の底裏に以心斎が朱漆で「守」と花押を認め、宗栄が箱書きしている。ちなみに、五老松とは大燈国師手植えになる五本の松のことである。なお、宗栄は「官休庵 昌(花押)」と認めている。元来、「官休庵」と署名ができるのは、武者小路千家の当主のみである。宗栄は未亡人となり、本来は表に出てくる立場でなかったはずであるが、以心斎の目が不自由となったことで、当主としての役割を代行したことと、利休の直系の子孫であるという自負から、「官休庵」の署名をしたのである。ちなみに、箱には作者名が無いが、『空華室日記』から7代中村宗哲の作であることがわかる。懐石は追善ということで、すべて精進料理で、松斎は盛り付けた数等を具体的に記録している。

 なお、この追善茶事に大綱は10月二25日、正受院喬谷(きょうこく)と黄梅院納所(なっしょ)宗竹首座、松村宗悦とともに招かれており、『日記抜録』には、利休の遠忌当時の武者小路千家の置かれていた状況や経緯、茶事当日の感想と偈頌(げじゅ)が記されている。

 好々斎の没後、以心斎の家督相続や失明という混乱が続く中、50年に一度執り行われる最も厳粛かつ重要な利休居士の遠忌を迎えた武者小路千家であったが、松斎を後見に立て、以心斎と宗栄、一門が尽力して多くの困難を乗り越え、法要ならびに茶事を無事に勤め上げたのである。




大燈国師手植えになる五老松の古材で作らせた利休松木盆 


吸江斎好 力圍希棗の内 力大棗


利休二百五十年忌記念に玄々斎がを焼物で写した利休形の梅鉢文白粉解香合

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