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南宗寺(なんしゅうじ)

  南宗寺は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で、山号は龍興山(りゅうこうざん)、三好氏の菩提寺です。弘治3年(1557)、織田信長に先行する「最初の戦国天下人」とも呼ばれる三好長慶(みよし ながよし)が父の菩提寺として京都大徳寺90世大林宗套(だいりんそうとう)を住職として迎えたのがその始まりです。大坂夏の陣で全焼し沢庵宗彭(たくあんそうほう)が中興し、さらには昭和20年(1945)7月10日の第6回大阪大空襲(堺大空襲)で開山堂、方丈・庫裡・茶室「実相庵」、東照宮などが罹災し、その後、方丈、庫裏、客殿等が再興されて今日に至っています。今日も境内は江戸時代の全集寺院の雰囲気をとどめています。

 方丈前の庭園は、庭石の寄進に対する礼状などから元和5年(1619)頃とされ、古田織部作と伝わる枯山水庭園で、国の名勝に指定されています。前面に広く白砂を敷き、小高くなっている地形を利用して枯滝(かれたき)を組み、そこから小石により表現された枯流れを右手の方向に流しています。庭全体を平地とする平庭枯山水形式の庭と石組造形を組み合わせて構成された名園です。

 北に面した総門を潜って山内に入ると二層で三間一戸の三門「甘露門」があります。江戸初期の正保4年(1647)の建立になり、国の重要文化財の指定を受けています。 そして本尊釈迦如来を祀る仏殿は、承応2年(1653)に建立され、方三間、屋根が入母屋造り、本瓦葺で裳越付き、桟唐戸や扇垂木などからなる大阪府下唯一の純粋な禅宗建築の建物です。こちらも国の重要文化財の指定を受けています。他にも重要文化財の指定を受けた唐門や明治に建立された禅堂、鐘楼、坐雲亭等の建造物があります。   堺は中世の自由交易都市として発展した町で、南宗寺の所在する南旅篭町界隈は、中世都市堺の町の面影が残る環濠の最南端に位置し、茶道と関連の深い臨済宗の寺院が密集し他地域です。中世自由都市堺の文化に多大な影響を与え、多くの豪商たちと交流のあった寺です。千利休の師である武野紹鴎が大林宗套に参禅し、利休も同じく南宗寺で禅の修行をした千家とは格別縁の深い寺でもあります。境内には茶室「実相庵」があります。明治9年(1876)堺博覧会の会場だった南宗寺へ同じ堺市内の塩穴寺から移築した茶室で、利休好みと伝えられていましたが空襲で焼失してしまいました。現在の「実相庵」は昭和36年(1961)に復元されたものです。本歌は二畳台目の下座床、開き戸の給仕口、床の落掛に卒塔婆が嵌められていることから「卒塔婆の席」とも呼ばれていました。実際には手法・材料から利休の時代まで遡ることは出来ず、後年に利休風の茶室を造ったとのことです。露地には武野紹鴎遺愛の六地蔵の燈籠や利休愛用の袈裟形手水鉢(向泉寺伝来)などがそなえています。

 坐雲亭の隣に千家一門の供養塔があります。中央に利休、左に裏千家、右に表千家と並び、武者小路家が手前右手に並んでいます。また、利休の師である武野紹鴎の武野紹鷗の供養塔・三好一族の墓所・津田宗及一門の供養塔・医師の半井卜養の墓などもあります。そして境内唐門前には千利休の遺愛の井戸「椿乃井戸」が近年その屋敷跡から移されています。

 そして大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康が駕籠で逃げる途中に後藤又兵衛の槍に突かれ、かろうじて堺まで落ち延びて南宗寺で絶命したとの言い伝えがあります。その遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬したとのことです。墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」との碑文が残っています。かつて東照宮があり、空襲で焼けて昭和42年(1967)に水戸徳川家家老の末裔三木啓次郎が1に再建したものが唐門の奥にあります。


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