名護屋城 黄金の茶室と竹の茶室

肥前名護屋城は豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の前線基地として、補給・連絡の中継地として重要な役割を果たしました。








約170,000平方メートルにわたり築かれた平山城で、五重天守や御殿が建てられました。この普請には黒田孝高、加藤清正、黒田長政などの九州の大名が動員され、わずか8ヶ月の突貫工事で完成しました。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものでした。そして城の周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどに大名の陣屋がおかれ、城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄しました。唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となりました。秀吉の没後は朝鮮から全軍撤収し、名護屋城もその役割を終えて廃城となりました。









出兵の期間中に秀吉が名護屋城に滞在したのは延べ1年2か月でした。その間、禁中茶会や北野大茶湯で用いた黄金の茶室を運ばせ茶会を催しています。フィリピン総督使節や明国使節の応接にも用いています。

また城内山里曲輪に数奇屋を建て、特に竹の茶室があったことが『宗湛日記』天正20年11月17日の項に記されています。


太閤様 名護屋にて御会、

山里の御座敷開きなり

この御人数の事、松浦道可(鎮信)、池田備中殿(長吉)、(神屋)宗湛、堀監物(直政)、船越五左衛門、以上五人、外の矢蔵まで寅刻(午前4時)より罷り出、夜明け辰の刻(午前8時)はい入候なり、

御座敷四畳半、柱もその外みな竹なり

四尺五寸の床、その下に道籠(戸棚)あり

二枚障子、大平(建物の長い方)の方みな窓にして、

腰に大竹を横に一つ渡して候

外は柴垣なり、細縁あり、手水石、縁より使い候ように、上にへぎめ板置いて、

同いろり眞縁、御釜、床には(玉潤筆の)夜雨一軸懸て、

前にソロリに山立花生て、薄板のすわる


かつて山里曲輪であった広沢寺境内の発掘調査でその遺構が確認されています。












豪華絢爛である黄金の茶室と侘びの極地ともいうべき竹の茶室を用いて秀吉は名護屋城で茶湯を催していました。秀吉の茶湯は、一見相反するものですが、決して対立するものではなかったのでしでしよう。かつて黄金の茶室の中に入った方が、内部は全くけばけばしいものでなく、壁や天井の金と畳と障子の緋色が反射してかえってとても落ち着く雰囲気だと話していました。決して草庵の茶室と対立するものではないとの感想でした。たからこそ利休は秀吉の黄金の茶室を受け入れ、良しとしていたのではないかと思います。




ちなみに豊臣秀吉の築いた城の石垣は名護屋城のみで、大阪城は大坂の陣のあと徳川家が築いたもので唯一の遺構です。




いずれにしろ今となっては真の思いは分かりません。まさに想像の域を出ないの一言です。

ちなみに黒澤明監督の『乱』のロケ地の一つに、名護屋城跡で撮影が行われています。


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あやめ