「和歌御会始」とは、毎年1月に宮中で催されている現在の「歌会始の儀」のことです。本日、令和の御代になり初めての宮中歌会始の儀がめでたく執り納められました。天皇陛下の御製は、
学舎(まなびや)にひびかふ子らの弾む声
さやけくあれとひたすら望む


宮内庁によると、陛下は保育園や学校などを訪れ、子供らと触れ合うたびに、子供らの将来が明るくあってほしいと願うお気持ちを表現されたとのことです。
宮内庁のホームページによると、和歌御会始の起源は、必ずしも明らかではありませんが、鎌倉時代中期,亀山天皇の文永4年(1267)1月15日に宮中で歌御会が行われており,『外記日記』はこれを「内裏御会始」と明記しています。和歌御会始の起源は,遅くともこの時代,鎌倉時代中期まで遡ることができるものだそうです。 和歌御会始は,江戸時代を通じほぼ毎年催され,明治維新後も,明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれ、その後、改革を加えられながら歌会始の儀として今日まで連綿と続けられる世界に類のない国民参加の文化行事です。 なお、天皇皇后両陛下の御前で,一般から詠進して選に預かった歌、選者の歌、召人の歌,皇族殿下のお歌,皇后陛下の御歌と続き,最後に御製が披講されます。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣,日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。

もともと和歌御会始は暮れに御題があらかじめ出され、和歌を二首を料紙に認められて詠進されました。それを天皇が見て、勝れた歌の右肩に点を打ちます。そしてこの詠草は詠進者に返され、今度は懐紙に清書して再び御所に提出し、御会始で披講されます。この点を「合点」といい、天皇自らが点を打つことから「勅点」といいます。ちなみに「合点がいく」の合点の語源です。

上 通理 御會始 都祝言 〵 君を祝ふ都の春にうつる日の なかき世かけてさしも仰かむ 仕ふへきいはふ心もせきたてゝ かすむやはなの都路の春
弘化元年(1844)1月24日の仁孝天皇主催の御会始に久世通理(くぜみちあや)が詠進した和歌です。両方とも自分が仕える天皇を祝う心と、うららかな都の春の風情が詠み込まんだ歌です。一首目の歌の右肩に打たれた合点は仁孝天皇が打った点です。また天皇への詠進ということで名前の右下に「上」と書かれています。これは神に捧げる歌にも記されます。

春日同詠幸逢泰平代
倭歌
関白信尹
あひにあひぬ秋津
嶋根の外まてもけ
におさまれる君かよ
のはる
慶長5年(1600)1月16日に後陽成天皇主催になる和歌御会始の時に関白近衛信尹(のぶただ)が清書して提出した和歌です。この時の御題は「幸逢泰平代(さいわいたいへいのよにあう)」でした。天皇の徳により日本はいうに及ばず遠く海外の国までも平和な春を享受できている喜びを詠んだ歌です。

上申 酉刻可被参給候也 来廿四日和歌御会始可有 披講読師之事可被存知給之旨 被 仰下候誠恐惶謹言 正月廿一日 為村 (切封)中山大納言殿 為村
来る二十四日、和歌御会始披講読師の事有るべし、存知給わるべきの旨、仰せ下され
候、誠恐謹言 上申、酉の刻参り給られるべく候なり
冷泉為村が和歌御会始の題者となり中山大納言に披講の読師に天皇が任命した旨を通知した書状です。追而書は酉の刻限に参内するように書いています。このように江戸時代の半ばになると日取りは24日に定着しました。
なお、読師(どくじ)とは歌会で懐紙を整理して講師(こうじ)に渡し、また講師に誤読のあった場合などには読み改める役のことです。他の諸役は講師を節をつけずに読み上げる役、発声(はっせい)は歌の1句から節をつけて先導する役、講頌(こうしょう)は2句以下を発声に合わせて歌う役のことで、披講はこれらの諸役によって進行されます。今日の歌会始の儀の諸役も同じです。

宮中歌会始の儀は、明治7年(1874)に一般の詠進が認められ,これまでのように皇族・貴顕・側近などだけでなく,国民も宮中の歌会に参加できるようになり今日に至っています。世界に類のない国民参加の文化行事となりました。詠進歌は日本全国のみならず海外からも寄せられ、これを披講する宮中の年中行事として皇室と国民の心を親しく結ぶ行事になっています。まさに信尹の歌の通り、 秋津島根の外までもげに治まれる君が代の春です!
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