泉涌寺は四条天皇崩御にあたり葬儀が営まれ御陵が造営されました。その後、孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は同寺で執り行われ、御陵が境内に設けられ、皇室の香華所となりました。
孝明天皇は 慶応2年(1867)12月25日、太陽暦で1月30日に崩御されます。一条家の諸太夫であった下橋敬長の『幕末の宮廷』によると、
後光明院様崩御の節御先例とおり、御火葬を仰せ
出だされましたところ、御出入りの肴商河内屋八
兵衛(十代目の人)なる者、御所御台所に参り、
御土葬御再興の儀を願いましたところ、お聞き届
けになりませんでしたが、日々嘆願いたしました
結果、泉涌寺へ御達しに相成りましたところ、そ
の僧侶は承知いたしません。そこで龕前堂おい
て、御火葬の御式を御執行に成り、松明を以て長
老御引導を授け奉り、畢って御内々にて御土葬あ
らせられました。後光明院様より仁孝天皇様まで
は表向きは御火葬であります。孝明天皇様は御土
葬を仰せ出されましたので、慶応三年正月二十七
日酉刻御出棺相成りまして龕前堂において御土葬
の御式が御執行になり、泉涌寺新善兄(光)寺、
尋玄長老鋤を以て御引導を授け奉りました。孝明
天皇御陵御在所は幕府にて司りますが、、御陵の
御道筋並びに石段等は摂家五軒にていたすのであ
ります。が担当しました。ついでながら前の八兵
衛は右の功勢(労)によりまして明治十二年一月
二十二日に士族御取立てと相成り三等章銀杯と金
三百円とを御下賜に相成りました。
後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子で第110代天皇です。天皇は仏教を「無用の学」として仏教を殊の外嫌い、開けてはならないとされる三種の神器が収められた唐櫃を開け、鏡の他に仏舎利があるのを見ると、「怪しい仏舎利め」として庭に打ち棄てさせたとの逸話が残っています。それに対し、幼少から学問を好み、儒学特に朱子学に傾倒し、漢学を尊重してこれを奨励しました。和歌や『伊勢物語』、『源氏物語』などの古典を柔弱として斥ける風もあったそうです。
後光明天皇の崩御にあたり、それまでの先例により葬儀を仏式とし、玉体は火葬にすると朝議で決しました。これを聞いた御所出入りの魚屋である河内屋奥八兵衛は、かねて儒学に心を寄せる天皇は「火葬は不仁である」と嘆いていたことを聞き及んでいました。八兵衛は仏教に帰依していない天皇を仏教の葬制である火葬にすることはその意思に沿わないと考えました。そこで、八兵衛は、上皇の仙洞御所はじめから五摂家、後宮、公家屋敷を回り数日にわたって号泣して火葬の中止を建言懇請をしたそうです。ついに朝議は八兵衛の建言を容れることとなり、持統天皇から千年近くにわたって続いた天皇の火葬を停止したのです。
ところが泉涌寺はこれまでの前例を主張して、同寺の龕前堂で下炬(あこ)、すなわち松明を用いて導師である長老が迷界から悟りの道へ導くために、死の事実を認識させ、現世の執着を棄て、悟りの道へ進むよう説く法語、引導法語をを唱えて火葬の儀式を執り行い土葬にしていました。この形式は後光明天皇から仁孝天皇まで行われていた形式だそうです。
孝明天皇の崩御の時は、朝議でそれまでの火葬の儀式を取りやめ土葬と決し、慶応3年1月27日の夕暮れ時である18時ころに御所を出棺し、泉涌寺龕前堂で新善光寺尋玄長老が導師となり、それまでの松明を鋤に替えて土葬の形式で引導を授けました。このように幕末の復古の風潮が盛り上がる中でも、前例である仏式での葬儀の形式を改めることができなかったのです。完全に神道式となったのは明治天皇からです。
なお、孝明天皇の葬儀では、御陵の造営は幕府が、参道と石垣は五摂家が負担しています。そしてこの功績により、10代奥八郎兵衛の功績により子孫の奥八郎兵衛が明治12年(1879)に追賞を受け、さらに明治40年(1907)5月には正五位が贈られています。
平成25年(2013)11月に400年ぶりに天皇陛下が火葬のご意向を発表されました。そして同じ御陵に皇后さまも埋葬する「合葬」の意向も示されていたましたが、皇后陛下が「畏れ多い」と遠慮されたことを踏まえ、同じ敷地に寄り添う形で御陵を造ることになったとのことです。ちなみに「皇室典範」では皇后の御陵は3分の1の規定があるそうです。天皇陛下は土地の問題で平行に造ることができなかった昭和天皇と香淳皇后の御陵をご覧になり、「用地に余裕がなくなっているのではないか」と感想を述べられ、御陵を小さくすることで、これから何代かは御陵を造ることができるのではないかと考えられたとのことです。なお、大正天皇と貞明皇后、昭和天皇と香淳皇后の御陵は、森林を切り開いてテニスコート16面分ほどの敷地に造られているそうです。両陛下の御陵は同じ敷地の中に寄り添う形で造り、大きさも2割ほど小さくすると明らかにされました。
天皇陛下は、今の社会では火葬が一般化していて、江戸時代以前は火葬も行われていたこと、火葬にすれば規模や形式をより弾力的に検討でき、御陵を簡素化することができるとのお気持ちもあったとのことです。
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