売茶翁は延享元年(1744)から宝暦4年(1754)までの10年間、相国寺の塔頭林光院に住んでいました。当時、林光院の住職は中嶽玄淑(ちゅうがくげんしゅく)で、この年の10月6日に亡くなっています。中嶽没後、師の光源院閑田梵佶(かんでんぼんきつ)が林光院を兼務しました。売茶翁の林光院在住はこの時期で、林光院の留守番的な立場であったのかもしれません。その斡旋をしたのが、のちに「売茶翁傳」を書き、『売茶翁偈語』を校閲した梅荘顕常(ばいそうけんじょう)であったと思われます。梅荘は売茶翁の法弟、大潮元皓(だいたちょうげんこう)に古文辞学を学び、売茶翁とも特に親交が深い間柄でした。武者小路千家では直斎が延享2年(1745)に家督を継承し、ちょうど21歳から30歳までの期間にあたります。今日、売茶翁が箱書を認めた直斎好みの「梅蒔絵錫縁香合」が残されていて、二人は面識があったようです。是誰は、後見的な立場ということで、若い直斎のために、俗を捨てて俗に入った真の出家ともいうべき売茶翁の姿を見せていたのではないかと考えられます。なお、直斎が林光院の庫裡を再建する資金捻出のために、同院の鴬宿梅の古材で茶杓と香合、棗を造っているのも、是誰が売茶翁と直斎との間を取り持ったことが機縁になっているのでしょう。 売茶翁は、「是れ我れ由来賈(か)を待つ人」と茶を買ってくれる人、即ち自分が真に目指したものを理解してくれる人を待ち、真の味がわかる人のいないことを「奈何(いかん)ぞ箇(こ)の裡(うち)味を知る無き」と嘆き、それを理解してくれるのは常に携帯している十二種類の茶道具である「十二先生」だけで、それでも茶を売り世間の人の眠りを醒し、「通仙の秘訣吾れ隠すこと無し」、仙境・悟りの世界に通じる秘密の手段を隠しはしないと歌っています。このような売茶翁に対し、当然批判的な人もいたでしょう。反対に支持者も多く、例えば前出の大潮や梅荘をはじめ、尼門跡の大聖寺宮永皎(だいしょうじのみやえいこう)女王、天台宗の僧で多くの漢詩を残した六如庵慈周(りくにょあんじしゅう)、大潮の門下で梅荘の師でもある儒者の宇野明霞(めいか)、同じく儒学者で篆刻家、画家でもある高芙蓉(こうふよう)、大坂北堀江の酒造家で文人、本草家であった木村蒹葭堂(けんかどう)、俳人で画家の与謝蕪村、書家で画家の池大雅、南画の彭城百川(さかきひゃくせん)、画家の伊藤若冲(じやくちゅう)等の文人たちがいました。
売茶翁周辺の文人たちの集団を高橋博巳氏は「売茶翁サークル」と呼んでいます。安田是誰も売茶翁サークルの一人としてこれらの人たちとも交流があったと考えられます。そして梅荘と同門で、儒者で漢詩人でもある片山北海は木村蒹葭堂を通じて、直斎の娘婿となる樋口道立(どうりゅう)の実父、江村北海と繋がりがありました。また道立自身も『平安人物志』の学者の項に記載され、当時学者としての評価も高く、木村蒹葭堂とも交流がありました。なお、道立の会記録「茗茶録」に、床を「裱軸」、花入を「花瓶」「花注」、水指を「水注」とわざわざ煎茶風に表記している箇所が多々あり、売茶翁サークルの影響によるものと思われます。武者小路千家でも一啜斎、好々斎とその周辺も売茶翁サークルに組み込まれて独自な発展を遂げ、売茶翁が亡くなった後も、売茶翁サークルはますます広がっていきました。そして幕末、売茶翁サークルの末裔たちが京都の文人層の一端を担うことになりました。公家社会では煎茶が流行し、特に煎茶に対する造詣が深かった一條忠香(ただか)は花月菴鶴叟(かくそう)や後楽堂小川可進(かしん)を後援しました。一條家献茶の奉仕に、わざわざ寡婦である宗栄を選んだ条件の一つが、武者小路千家が売茶翁サークルの一員であると、一條忠香に評価されていたからと考えられます。 芳春院の眞巌宗乗(しんがんそうじょう)『雲載稿』乾に、安永2年(1773)の夏、安田是誰72歳の時に大納言近衞経凞(つねひろ・1761〜1799)に命じられ、関白近衞内前(うちさき・1728〜1785)に献茶をした折に贈った詩が記載されています。 贈是誰老人 洛陽是誰老人 受業真伯居士 克守其風規 茶
名籍甚今茲安永癸巳夏 陽明亜相卿躬親點茶
以供尊大人関白殿下 蓋以殿下好茶湯也 於是
亜相卿命老人 製茶杓云 余近時訪木蘭居 而
感老人之屡恵茶焉 奥聞此美 不能拑口 漫賦
巴章二絶 以寄茶炉下 聊充笑具而已 陽明殿下愛茶* 亜相命翁製茶匙 不是長生能會道 一朝誰得此光凞 元伯真風属此翁 何論陸羽與盧同 木蘭室内乾坤窄 人世由来任汙隆 是誰老人に贈る 洛陽の是誰老人、業(ぎょう)を真伯居士に受
け、克(よ)く其の風規(ふうき)を守る、茶
名籍甚(せきじん)たり、今茲(ここ)に安永
癸巳夏、陽明亜相(あしょう)卿、躬(み)親
しく茶を點(てん)ぜしめ、以て尊大人(そん
たいじん)関白殿下に供(きゅう)す、蓋(け
だ)し殿下茶湯を好みたまふを以てす也、是に
於いて亜相卿老人に命じ、茶杓を製せしむと云
う、余今時木蘭居(もくらんきょ)を訪ねて、
老人の屡(しばしば)茶を恵むを感ず、奥に此
美を聞きて、口を拑(ぐつ)むこと能(あた)
わず、漫(みだ)りに巴章二絶(はしょうにぜ
つ)を賦(ふ)し、以て茶炉下に寄せ、聊笑具
(いささかしょうぐ)に充(あて)るのみ 陽明殿下茶㕝(ちゃじ)を愛し 亜相翁に命じて茶匙を製せしむ 是れ長生能く道を會(え)するに不(あら)
ずんば 一朝誰か得ん此の光凞(こうき) 元伯の真風此翁に属す 何ぞ論ぜん陸羽(りくう)と盧同(ろどう)
と 木蘭室の内乾坤窄(けんこんせま)し 人世由来汙隆(ちりゅう)に任す 洛陽の是誰老人は、真伯居士に茶の湯を受け、よくその教えを守り、その茶名はさかんに世に広まっている。今、安永二年癸巳の夏、近衞経凞大納言卿が是誰老に親しく茶を点てさせ、父である近衞内前関白殿下に差し上げた。殿下が茶の湯がお好きだからである。そこで大納言卿が是誰老に命じ、茶杓を作らせた。私は近頃、木蘭居を訪ねて、是誰老がたびたび茶を与えてくれることに心が動く。奥で今回のこの立派な献茶と茶杓のことを聞いて、口をつぐむことができず、とりとめなく大したことのない絶句を二首作り、炉の傍に差し出し、いささかお笑い草までとする。「陽明殿下は茶事を愛し、子息大納言に命じて是誰老に茶杓を作らせる。このことは長生きして茶の湯の道を修めなければ、ひとたびこのような光り輝く名誉なことを誰が得ることができようか」。元伯のわび茶はこの老人に連なっている。どうして陸羽と盧仝のことを論じる必要があろうか。木蘭室即ち是誰の茶の湯はあまりに広大で、これに比べてかえって天地が狭い。是誰の境涯はまさに自由自在で、生まれながらの茶人になりきっている」。 初めの絶句は今回の慶事を言祝ぐ内容で、二句目は是誰の茶の湯は宗旦のわび茶を正しく継承し、その境地が完璧であると絶賛しています。眞巌にとっての茶の湯は、売茶翁が茶聖として敬慕した陸羽や盧仝ではなく、宗旦を究極の理想として位置付けている点が大変興味深いです。珠光以来、茶の湯に多大な影響を与え、代々の家元たちが参禅している大徳寺の禅に対する眞巌の自負を見ることができます。そして大徳寺の禅により完成したのが、宗旦のわび茶であると主張しているのでしょう。是誰が茶の湯を形成するにあたり、売茶翁の影響は多大なものであったと思われますが、あくまでそれは一部分であり、最終的に是誰は宗旦のわび茶の道統を体現した人でした。なお、これによると是誰の茶の湯における名声は広く世間に知れ渡り、近衞公の耳にも達していたようです。当時、地下(じげ)の鍛冶師が、時の関白に親しく献茶をするなど想像を絶することです。その上、茶杓を作って献上するように命じられています。このことは是誰の人生における栄誉の極であり、また武者小路千家の門人である是誰が最高の評価を与えられることにより、師である真伯と武者小路千家の道統が顕彰され、是誰一人であるばかりでなく、流儀一門の栄誉となったのです。
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