好雪片々不落別處

先日稽古場の床に川島昭隠の筆になる白紙賛「好雪片々不落別處」を掛けました。この句は、『碧眼録』という禅語録に記載された公案です。維摩居士と並び称せられる在家修行者である中国唐代の龐(ほう)居士の逸話がもとになっています。

龐居士が、薬山惟巌(やくさんいげん)禅師のもとを去る際、禅師の弟子たちが門の外まで出て見送りました。空から雪がひらひらと降っていました。居士は見送りに来た弟子に、「とても美しい雪がひらひら落ちている。この雪はたまたまではなく、ただ落ちるべき処におちている。諸君はこれをどう見る」と問答を仕掛けました。すると一人の雲水が、「ただ落ちるべき処に落ちているとおっしゃいますが、それなら一体どこに落ちるのですか」と問い返しました。居士はすかさずその雲水を平手打ちをします。打たれた雲水は、「叩かなくても話せばわかるじゃないですか」と、不平を言いました。居士は、「君はそんなことで腹を立てたり、こんなことが分らんようじゃ閻魔さんなら君を容赦しないだろう」とこの雲水を叱りました。そしてこの雲水は、「それじゃ、居士はどう答えますか」と再び尋ねました。すると居士はさらに平手打ちをして「眼に見ながらこの好雪片々が見えないとは目が見えないのも同然、口があってもこの落ちる処が言えないではしゃべれないのも同然だ」と叱ります。

わたしたちは一般常識として相対的に見て理論理屈で判断してしまいます。見る雪もなく、見られる雪もなく、自らが雪そのもと一体になればそこが本来落ちるべき処ということなのだそうです。

私は常にこう思っています。物事はあるがまま。それ以外は決してありえません。私たちにとって偶発的な失敗や不幸なこともすべて起こるべくして起きたことで、起きることはすべて決定されているのです。これから起きることも同じで、今の自分に必要だから起きているのだとわたしは思うようにしています。これをキリスト教では「神の思し召し」といいます。

そして私たちには欲望があります。私は欲望自体が悪いのではないと考えています。もし人からから欲望が無くしてしまったら、進歩も発展もありません。今日の人類の発展はまさに欲望のなせる業であると思っています。少しでも快適に生活したいという欲望が火を起こすことを発見し、道具を使うこと、それを作ることを身につけたのです。そしてその欲望はコンピューターを作り、人工衛星を打ち上げたのです。欲望がなければ、今も私たちは猿と大して変わらなかったのではないでしょうか。欲望自体が悪いのではなく、物事に執着することが苦しみを生むということが問題なのです。

なかなかできないことですが、不平不満をいわずにその現実を受け入れてしっかり生る。物事に一喜一憂せず、結果としてありのままに受け止め、これを上手に使い分けてバランスを保つことがもっとも楽な生き方かもしれません。

ここに書いたこと自体理屈そのものです。今にもどこかから居士の平手が飛んできそうです。



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