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執筆者の写真木津宗詮

山中定次郎

山中定次郎は慶応2年(1866)に堺(大阪府)に生まれている。名を安達定次郎という。



明治11年(1878)に大阪高麗橋三丁目の古美術商山中吉兵衛の店の丁稚として入店している。同22年(1889)、三代吉兵衛長女貞と結婚し、山中家の養子となり山中定次郎となる。明治27年(1894)、一族の山中繁次郎とともにアメリカに渡る。叔父山中吉郎兵衛の肝いりでおよそ5万円相当の書画骨董を携えてニューヨークに出店する目的での渡米であった。そして日本工芸品の第1回試売会を開催し好成績を収めている。なお、当初山中家の一族はこのニューヨーク進出には反対であったが、定次郎は世相を鑑みて一族を説得し、出資させることに成功したと伝えられている。翌28年(1895)、ウィリアム・S・ビゲローやエドワード・S・モース、アーネスト・F・ヘノロサの助力・斡旋を受けてニューヨークに本格的な店舗を開き、書画や根付・印籠・茶器・日常の雑貨・盆栽等まで日本の美術品や工芸品を販売した。なお、ボストン近郊には盆栽を商う園芸部門まで経営していた。同32年(1899)にはボストンに支店を開設している。なお。ニューヨーク支店の上得意としてロックフェラーやチャールス・フリーヤー等、シカゴ支店にはアル・カポネの名もある。またロンドン支店にはユーモルフォポロスデービット卿などが名を連ねている。その後、日本から山中松次郎、牛久保第二郎、森太三郎の三人が加わっている。その間、定次郎はイートーマス商業学校に入学し三年間勉学に励んでいる。



明治33年(1900)、山中商会を合名会社組織とし、ロンドン支店を開設し、イギリス王室の用命を受けている。後にシカゴ支店、パリに代理店も開設している。また同年には各支店で販売する家具・雑貨等を製作する工芸品製作工場を大阪上福島に作っている。その一方では海外の工芸品を輸入して大阪で展示即売会を催したり、道頓堀中座で映画上映の興行も行ったりもしている。同45年(1912)、北京の清朝恭親王のコレクションを屋敷ごと購入し、後に屋敷は山中商店の北京の出張所とし、古銅器や翡翠・玉器、犬の狆まで買付けて欧米の支店で販売している。また、スエーデン王室の収蔵品の鑑定を行っている。このように定次郎は、東洋新古美術品の輸出紹介の事業により世界に名を知られ、美術界に貢献するところ多大であつた。



大正6年(1917)、3代目吉兵衛の死去に伴い合名会社山中商会の一切の業務を担当し、翌7年には株式会社山中商会と改め社長に就任している。同12年(1923)、ヨーロッパ各国を歴訪して古美術品を収集、大阪美術倶楽部で東洋美術展を開催している。これ以降、昭和11年に至るまで10数回にわたって大展覧会を開催した。大正13年(1924)と同15年(1926)の2度にわたり、中国天竜山石窟に赴いて北斉及び隋・唐の石仏調査をし『天竜山石窟踏査記』を著している。また仏印・シャム・ジャワ等にも調査に訪れている。 第一次世界大戦中、フランス人アンリ・ベーベルの浮世絵コレクションをロンドンの山中商会が松方幸次郎に斡旋し、流出した浮世絵を日本に戻している。またガウランド・コレクションの四条派・森派の名作も買い戻している。そして、大正15年~昭和11年(1926〜1936)にかけて、京都帝国大学や東京美術学校・奈良女子高等師範学校・朝鮮総督府博物館・京都西陣織博物館・帝室博物館・東方文化学院京都出張所・京都陶磁器試験所京都市美術館などにガンダーラ仏、その他の東洋古美術品の数々と書籍類を寄贈している。このように晩年の定次郎は、海外に流出した美術品を買い戻したり、学問上貢献すると考えられる高価な品であっても博物館や大学等の公共機関に納めて学問研究に貢献するよう努めている。

昭和11年(1936)10月30日、胃潰瘍で高麗橋の自宅で71歳の生涯を閉じている。従六位を叙位され、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を追贈されている。なお、昭和三年に緑綬褒章を受け、またフランス政府からシュバリエ・ドラゴン・ダンナン勲章、ドイツ政府からはローテン・クロイツ勲章を贈られて、イギリス国王ジョージ五世からロイヤル・ワラント(イギリス王室御用達)の栄誉を受けている。 

なお、その後の山中商店は第二次世界大戦で、海外の膨大な資産がすべて敵産として凍結されてしまった。海外支店はすべて閉鎖され、海外資産が接収され、戦後、縮小して大阪で営業している。

定次郎は木津家3代聿斎宗泉の門下で、大正4年(1915)12月9日、聿斎の設計になる京都南禅寺の山中定次郎別邸の看松居が竣工し、その披露の茶会が連会で催されている。書院と次間、小間茶席、主人及び夫人の居間、別棟茅葺茶席で構成されている。庭は小川治兵衛の作になっている。また、山中商店の店員の茶の湯の稽古を花笑斎が指導している。



定次郎の逝去にあたり、聿斎は次の和歌を手向けに詠んでいる。

  家のわさ外国まてもひろこりて

  君のいさほはなかく朽まし

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