山路日暮満正者 (印)
3代木津聿斎(いっさい)宗泉の農夫と牛の画賛です。農夫が田を耕すために牛を耕作に使役している絵に賛を認めています。「山路日暮満正」は農家の仕事・暮らしを的確に表現した句だと思います。農家は朝は日が昇るとともに田や畑に赴き、日が沈むと家に帰り夜なべ仕事をする。まさに勤勉の象徴であり、正直に黙々と働く人の象徴であったと思います。仕事は辛い、決して生活は楽でない、土にまみれ、何一つ華やかさの無い仕事をただただ生真面目につとめる。でも彼らには彼らなりの楽しみや幸せが間違いなくありました。まさにむかしの日本人の労働の鑑であったのです。この勤勉さがすべての職人に通じ、すべての商人に通じ、また古くは武士にも通じる。これが今日の経済大国・科学立国日本の原点だったのではないかと私は思っています。今日のわたしたちの社会・日本の発展はまさにここに帰結するのでは無いでしょうか。 わたしはこの軸にそのことを見ます。近年、労働法等の規制、また働き過ぎに対する世論の厳しい批判。私も十分理解しています。ですがわたしはこの勤勉努力に社会の進歩発展がこの一点にあったと思っています。「人権」そんな堅苦しいことばはなにもいりません。みんなが優しく、みんなが他人を大切にする、それだけでことたりるのではないか、それだけで人は幸せに働き、そして幸福に暮らすことができるのではないかととすら思っています。『論語』衛公篇の「己所不欲、勿施於人(己の欲せざる所、人に施す勿れ)」すばらしいことばです!。学校も職場も休みを増やし豊かなにななりました。でも失ったものもそれ以上にたくさんあります。余談ですが、以前、フィリピンにいったとき、スラムで友だちになった人たちのすばらしい笑顔を忘れません。すばらしい笑顔でした。マイケルジャクソンが世界で最もすばらしい笑顔はフィリピンの人たちだといったことばがあります。アジアで最も貧しい国、出稼ぎの最も多い国、でも彼らはそんな中でも大切なものを守り続けているのです。きっとわたしもかってそんな笑顔ができたはずです。もう一度取り戻したいと切実に思っています。
さて、聿斎はわたしからみると4代前の木津家の当主です。文久2年(1862) 卜深庵2代得浅斎の子として17番目の子として誕生しています幼名を十七吉(となきち)と名乗りました。その後榊造、宗一、聿斎と号しています。父得浅斎は勤皇の志が厚く、後に外務卿として不平等条約の治外法権の撤廃をさせた睦奥宗光と肝胆相照らす間柄で、勤皇の志士を支援しています。維新ののち、茶の湯が振るわなくなり、得浅斎は和歌山県(旧紀州藩)に帰農届けを提出して、士族の籍を返上し、一時期、河内で養蚕家として家計を支えました。ちょうどその頃、聿斎は手に職を付けるため、単身上京し、旧紀州藩邸に起居しつつ、安井 息軒の漢学塾に入門しました。時に明治6年(1871) 聿斎12歳のときでした。翌7年(1872) 13歳の時に、近衛篤麿の書生となり、篤麿の勧めで宮内書内匠寮で技師木子清敬に旧式建築製図を学び、翌年に大阪に帰っています。再び、明治12年(1879) 18歳の時、得浅斎の門人平瀬露香に伴われ、工部省開成学校の入学を目的として上京しますが、嵐のため船の到着が遅れ受験できず、止む終えず大蔵省簿記伝習所に入学して簿記を勉強しました。のち露香が経営する第三十二銀行入行し、その後、大阪東区役所に就職し、続いて豊田絨店(羅紗)に入店しています。このことは、未だ茶の湯が振るわず、茶の湯の教授だけでは生活できなかったからです。その間、茶の湯の修行は父得浅斎や11代家元一指斎に師事し、また大徳寺471世・2代管長牧宗宗寿に参禅し、また牧宗の計らいで大徳寺山内の茶室の実測などをさせてもらっていました。なお、この当時はまだ大徳寺に「寸松庵」などの名席が残っていた時代でした。また、このころ、宮内省の格別の計らいで、桂離宮はじめ京都御所に一週間以上にわたり泊まり込みで実測調査、同じく正倉院御物の調査に参加しています。そして明治24年(1891) 30歳のときに、京町堀で自前の稽古場をもち、片手間とはいえ、本格的に茶の湯の教授をはじめています。 明治29年(1896) 卜深庵2代得浅斎が75歳で没し、家督を相続しています。この時、聿斎34歳でした。そして明治42年(1909) 48歳の時、平瀬・藤田・豊田三氏が聿斎を後見をするという条件で、平瀬露香の嗣子露秀より武者小路千家家元預を譲られています。 この時、大徳寺僧堂師家の昭隠會聰より聿斎号を贈られています。また同年、聿斎は迫間(はざま)房太郎の東來(トンネ)の別宅設計のため、大韓帝国釜山に赴いています。この別宅は職人はいうに及ばず、瓦をはじめ土も材木もすべて日本から持ち込んで造っています。なお、この物件はその後、数奇な運命を辿ることになります。昭和20年終戦とともに進駐軍の司令官の宿舎になり、その後、朝鮮戦争のときに釜山が大韓民国の臨時首都になったとき、副大統領の官邸となり、その後、民間人に払い下げられ今日はレストランになっています。近年、この地域は再開発の対象の地となり、近々、オーナーがマンションにするとの計画があるとのことです。釜山に行かれるかた、是非とも一度訪ねて下さい。食事をしなくてもお願いすれば庭園を見せてくれます。一時も早く訪ねて下さい!そして聿斎はこのときも含め、生涯3度朝鮮に住宅や茶室・庭園の設計・監督に渡鮮しています。大正4年(1915) 54歳の時に、聚光院本堂・茶室改修に携わっています。 大正7年(1918) 聿斎57歳の時、愈好斎の家元継承により家元預を返上しています。その後も武者小路千家の教授、茶室・庭園の仕事を熱心につとめました。そして昭和3年(1928) 聿斎67歳の時、聿斎一代の名誉ともいうべき、東京青山の大宮御所の茶室・茶庭の設計のご下命を蒙っています。翌年には大宮御所御茶室秋泉亭竣工がなり、貞明皇后にご嘉納していただきました。昭和5年(1930) 69歳、これまた聿斎一代の栄誉ともいうべく、貞明皇后のご恩命により、御茶室のお名前「秋泉」の一字をとり、宗詮の世襲号を一代限り「宗泉」と改めています。貞明皇后からお名前をいただいたことは、聿斎のみならず木津家の誇りでもあります。その後は、四天王寺本坊庭園設計、朝香宮邸庭園並びに茶室の監督、四天王寺茶室払塵亭・庭園、道明寺書院座敷、興福寺茶室静看寮・庭園、比叡山延暦寺の大書院の設計・竣工をつとめさせていただき、京阪神はいうに及ばす、中国地方や東京、関東地方にも多数の茶室・住宅・茶庭・庭園の設計・監督に尽力しています。昭和12年(1937) 76歳、貞明皇后関西行啓にあたり、京都大宮御所で好みの卓子(立礼卓)で点茶、炭点前の台覧に浴しています。 昭和14年(1939) 聿斎78歳。風邪をこじらせ病床に就き、その後、それがもとで 7月29日午後6時30分に没しています。なお、設計ばかりではなく、数え切れない墨跡や好みの道具、『官休清規』・『利休百首管見・『調味料理栞』『南坊百首前半百首評釈』・『茶道』に「茶室の設計」「懐石の調味と調理」「大阪・ 奈良の庭」等の著書を残しています。わが木津家の中興の祖ともいうべき人です。
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