木津松斎聞書 帛紗 3

帛紗の使い方

 『和漢茶誌』に、珠光が中国で着衣の腰帯につり下げた玉製の装身具「佩玉(はいぎょく)」に倣い、威儀を正す手段として帛紗を腰に下げたとありますが、一翁が杉木普斎に宛てた伝書である『千宗守老江御相傅仕請書之記』、利休七哲の一人細川三斎の茶の湯について記された『細川茶湯之書』等の記述から、利休以前の帛紗は着物の懐中や袂に入れて用いられていた様です。『江岑夏書』には「ちさく角をこしニ付申候」とあり、利休が宗恩の考案した寸法の帛紗を腰につけたことに始まると考えられます。仮に古帛紗を四分の一の大きさに畳んで腰につけたのではあまりも小さすぎ、宗恩の帛紗ならば問題なく扱えます。なお、腰につけたことが珠光に遡ることができないとしても、威儀を正すためという点では利休も同じ意味で腰に着したのではないかと思われます。そしてそれは佩玉ではなく、「平江帯(ひんごうたい)」に倣ったのではないかと考えられます。臨済宗で最高の格式である道具衣(大衣・九条袈裟)をつけるとき、端を編み、その先に房をつけて装飾した紐を衣の腰の位置にしめて威儀を正します。これが平江帯です。『下學集』に、「平江府ヨリ出ス之ヲ故ニ云フ」とあり、本来は南宋の平江府(蘇州)で作られた絹製の紐で、禅の渡来とともに伝わったものでした。現在、大徳寺派では「前住職」の位の者がが開山忌等の大きな法要の時に道具衣とともに用いています。

 帛紗をつける位置については流儀により左右が一定していません。三千家や庸軒流・宗徧流等は左に、藪内流や遠州流・石州流・上田流等では右につけます。藤村庸軒の茶の湯について記された『茶道望月集』に、

  宗旦老後には、必左に附て極侘の茶事のみにてある故、只左にのみ附る事と覺え、當時爭ふ事不可也、古法にて、眞は必右に附るが古人の吟味ぞと也

右につけるのが古法で、宗旦が老後の極侘で行った茶事では必ず帛紗を左につけたとあります。宗旦が極めた侘茶の境地のひとつが帛紗を左につけることであったのでしょう。ただし、近衛予楽院の『槐記』には「宗旦ガ左ナル故ニ、勝手ニ任セタルヲ見取リニシタル」と宗旦が左利きであったので、門人が左につけたのを見て身につけたことによるとあります。また別の説には、武士は「武士の命」とされた刀を左腰に差すことから、常に左を用いずに帛紗を右につけ、宗旦は生涯仕官をせず隠逸の侘者であったので大小を帯しなかったことから、左につけたという説があります。それゆえ遠州流や石州流等の武家の茶道は右、千家並びに宗旦の流れを汲む茶人は左であるというものです。この説に関してはいささか無理があるように思います。まず右に帛紗をつける流儀として藪内流があります。同流は二代藪内真翁が本願寺の良如に招かれ、茶堂として仕えました。本願寺のような僧侶は刀を差さないのに、帛紗を右につけるのは矛盾しているように思われます。逆に千家はそれぞれ大名家に仕え、その流れの茶人たちも多く武家に仕えて、多くの武士が茶の湯を学んでいるにもかかわらず帛紗を左につけます。また茶室には刀掛があり、入席前に刀をそこに預け、主客ともに無腰で接し、非勝手(逆勝手)の席では帛紗を右につけます。帛紗を右につけるか左につけるかは、刀を腰に差すことが問題ではなく、新旧の作法いずれを尊重するかによる相違からだと考えられます。

 武野紹鷗の茶の湯を記した『紹鷗遺文 池永宗作への書』の「無道具眞之茶」に、

  膝ヲ立直シフクサ物取出シ、茶入ヲ取、能フイテ座敷ノ面ニナ

  ウヲシ、茶杓ヲモ曳茶入ノ上ニ置キ、フクサ物ヲハ懐中ニ入レ、

  茶箋ヲ取

とあります。紹鷗は帛紗を懐中に入れていたことがわかります。また、『松屋會記』の永禄六年(1562)正月十一日の条には、

  左ノ袂ヨリ白フクサ物取出シ、盆ヲフカレ候

と記され、袂から帛紗を取り出してています。また『細川茶湯之記』には、

  一ふくさハ、はしを二重に取て、腰にもはさむ、ふところに

  も入る、左右の袂にも入る

とあり、利休の高弟である細川三斎は腰につけたり、懐や袂に入れるなど、種々の作法があったと記しています。そして一翁が杉木普斎に宛てた伝書『千宗守老江御相傅仕請書之記』には、