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帝王の風格

後水尾天皇の宸翰です。

     返/\なを

掛香之

よく

知人に    方の

 尋      事

  候へく候

     かしく

   仰下

    され候

   則書付

  進之

   候へく候


掛香の方の事、仰せ下され候、

則ち書付、これを進じ候べく候

返す返す、なをよく知人に尋ね候べく候

               かしく


掛香のことをだれかに教えてもらい、そのことをより詳しい人に尋ねるという旨が書かれています。本来、天皇の意向は、女房(女官)が仮名書きの書にして当該者に対し発給します。それを女房奉書といいました。女房奉書は詔書などの公文書ではなく私的なもので、原則として後宮の事務を取り仕切っていた掌侍(ないしのじょう)の筆頭である「勾当内侍(こうとうのないし)」によって発給されました。相手の地位や内容によってはそれよりも格上の典侍(ないしのすけ)が発給する場合もありました。戦国時代以後には女房の筆になぞらえた天皇の宸翰による女房奉書も作成されています。この宸翰も女房奉書にならったものです。本文は大きく書き、その行間に追書(おってがき・追伸)が雁行体で書かれます。

後水尾天皇 は江戸時代前期、第108代天皇です。諱は政仁(ことひと)、法名は円浄。文禄5年(1596)に後陽成天皇の第3皇子として生まれ、6歳で即位しています。その治世は徳川幕府の体制確立期にあたり、徳川秀忠の娘和子が入内し、朝廷の権限は禁中並公家諸法度で規制されました。徳川家光の乳母である福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は、幕府への通告を全くしないまま二女の興子内親王(明正天皇)に譲位し、明正・後光明・後西・霊元各天皇の4代にわたる院政をしきました。和歌をはじめ漢詩・書・茶の湯などに長じ、退位後、明暦元年(1655)から4年の月日をにかけ江戸幕府に修学院離宮を造営させています。その間、上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたと伝えられています。延宝8年(1680)に85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。

なお昭和60年(1985)7月12日までは歴代最長寿の天皇でした。記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしています。

奉書サイズの料紙に筆力の充実した流れる様な筆遣いで書かれています。まさに気品あふれる筆跡に、帝王の書の風格を感じます。

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