我が師杉木普斎

かつて新型コロナで仕事がほとんど無くなった時、普斎の自賛になる狩野周信の描いた肖像画を書斎に掛け、毎日毎日、普斎自筆の伝書を読みました。不思議なことに日ごとに普斎と共にいるような気持ちになりました。


そもそも肖像画はその性格上、この絵を見て誰であるか判然と理解できることが大前提で描かれています。何歳の時の姿かは不明ですが最晩年のものに違いありません。この絵はプロの絵師が普斎を目の前にして描いたものです。普斎がよしとした自らの姿であるのは間違いのないことです。そしてこの賛は普斎自らが死を目前にした最後の境地です。いわゆる辞世の句です。まさに茶人普斎の人生そのものが書かれているのです。

卓に置かれた香炉からゆらゆらと煙が立ち込め、その前に着流しに道服を身にまとって一点を見つめる姿です。無精髭にわずかに残る髪、そして見事な福耳、キリッと結ばれた口。目には何かしら優しさを感じます。左の脚を立て膝にして座り、裾からは素足がのぞいています。

普斎は息子の吉太郎に家督を譲る61歳まで、伊勢の御師として諸国を巡り伊勢参宮を勧めました。そして死ぬ前年の78歳まで京都をはじめ大阪、播磨、讃岐、そして遠く九州まで宗旦に伝えられた千家の「正風の茶の湯」を広めることに邁進しました。このわずかに見える足に私はそのすべてを見ることができると思っています。威厳というよりも、為すべきことをすべて為した一茶人としての悟りの境地が描かれているのに違いありません。そしてその境地を辞世として賛に認めているのです。


筆に姿を残し流るならうるさし

絵に本分ありや否

如何正法眼曰

忝も此普斎ゝゝ

残念なことです。私には生涯この賛の真の意味を知ることはできないです。でもほんの少しでも理解できるようになりたいと切望しています。この軸をじっと見ていると、まさに普斎が目前に居て私に正風の茶の湯を説いてくれているのです。悲しいかな凡庸な私にはそれを十分に理解することが出来ません。ただ大袈裟ないい方ですご、少なくとも長らく俗事にかまけていた私に、忘れていた初心を思い出させてくれました。私の師匠です。

宝永3年(1706)6月21日に杉木普斎は79歳で伊勢の地で亡くなりました。それは今から315年前のことです。今日は普斎の祥月命日です。

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前出の通り、松斎(歓深院降龍)が安政2年(1855)の元旦に亡くなり、2月5日に得浅斎は喪主として本葬を勤めている(『鐘奇斎日々雑記』)。この時、得浅斎は36歳の働き盛りであった。同十二日には恒例の利休忌を卜深庵で勤めている。得浅斎は喪中にも関わらず、流祖利休の追善の茶会を催している。 そしてこの時期の得浅斎は前後して多くの不幸に見舞われている。同年3月2日には義母の柳(教深院貞寿)が松斎の後を追