• 木津宗詮

擇友千歳古(ともをせんざいのいにしえにえらぶ)

  ある時節会の晩です。太政官の村田右大史、その位階は正五位下、官は右大史、御所の

  方では太政官に勤め、一条家では御近習を勤めておる、兼刑部大条丞です。それが、大

  納言、中納言、参議の列座しておる席で、装束を着たままで、灯芯をかき立てなければ

  ならぬ、そのかき立てる時に、うっかりして落として、二条さんの装束の膝に油がかか

  った。そこで「恐れ入りました」と両手をついて謝罪った、それはそこで謝罪らぬで、

  (ついてきている)諸大夫へかかって(会って)、「唯今疎忽なことをいたしました、

  何れおことわりにでますけれども、どうぞ今晩のところは宜しゅう願います」と言え

  ば、それで宜かったけれども、大臣に向かって卑しい者から声をかけては相済まぬ。宜

  しくないので、右大史を辞すべしということになって、太政官に出られないようになっ

  てしまった。その時分の大臣は、勢いのあったものでした。今日は無位無官の人でも、

  大臣の御側に行っても物も言えますが、昔はなかなか会う訳にいかぬ、まるで、大臣は

  天子と異なるところなしです。えらい勢いのあったものです。


 五摂家の一つ一条家の侍で御側出仕となり、朝廷の装束召具方をつとめた一条敬長の講演記録である『幕末の宮廷』の一文です。なんともすごいお話です。現代からは到底、想像もつかないことです。大臣に対し役人が粗相をしたから免職になるなど。今の大臣と当時の大臣の位置付けは異なります。また、身分と格式というもので成り立っていた時代ですから、そうしたものだったと理解しなければなりません。なお、敬長は幕末に御所に一条家に出仕し、維新後は京都御所の殿部などをつとめました。そして大正13年7月に亡くなっています。  十二代広島藩主の浅野長勲(ながこと)は、


  将軍に謁見します時は白書院で行います。白書院には上段、下段の2つの間があり、も

  う一つ先に間がある。上段の所に将軍が簾を半身垂れて着座しておられる。国主になる

  と、上段の次の間の中ほどで謁する。将軍を拝し見ることはできません。平身低頭する

  だけです。国主に限って、老中の披露があるが、何の守などと言わず、ただ安芸とか薩

  摩というような風に披露する。ただ、津の守、紀の守だけは、摂津、紀伊とはいわず守

  をつけて披露されます。その様子は全く君臣の態です。陛下に拝謁するには、御顔を拝

  することができるのに将軍の場合は将軍からご覧になるだけで、こっちから仰ぎ見るこ

  とはできません。だから、大広間詰以外の柳の間ぐらいの外様大名が謁見するときは、

  将軍が終始着座しておられない、といわれるほどです。この時は白書院の先の一間の障

  子のところに5人位ずつ並んで謁する。この時は何も披露がなくお辞儀をして引いてい

  くゆくだけです。謁するとき畳の縁へ手がついたり障子へ脇差がさわったりすると、御

  目付けが駈けてきて、下城差留めということになる。ただし、これは譴責を受けるだけ

  で、それ以上の処分はありません。


大名が将軍に拝謁することはとても大変なことでした。拝謁は高位の大名から順番に行われ、大大名のお目通りは個別で、並みの大名の場合は数人まとめて拝謁しました。大名たちは拝謁の間ずっと平身低頭で将軍を見ることはなく、将軍が大名に対して「それへ」と一言だけ。大名はこれに対して決して返事をしてはならない。代わりに老中が「これこれが有り難く申しております」と決まった言葉を発し、大名は頭を下げたまま書院を退出したとのことです。いくら自分の屋敷で家臣に対して尊大に接していても、大名も将軍の前に出るとタジタジでした。  そして、それぞれの身分格式により着座する位置まで定められていました。 


  大納言・上段より下に三畳目の上位   中納言・上段より下に三畳目の下位   宰  相・上段より下に四畳目の下位   中  将・敷居より上へ三畳目の上位   少  将・敷居より上へ二畳目の上位   侍  従・下より一畳目の下位   四  品・板縁の下位より上へ三畳目中位   諸大夫・板縁の下位より上へ二畳目中位   一万石以下・諸大夫の位置よりやや下位


将軍と大名に至っては本当に厳しい扱いの差別があったのです。これは上は天皇や公家・将軍・大名下は百氏・職人・町人、家族間でも形は異なりますが本質は同じでした。  また、私の経験ですが、今から30年以上前に、奈良のさる尼門跡で御前様にご挨拶した時のことです。午前様の前には御簾が降ろされ、お次の尼僧が取次をされたのを覚えています。明治以前の尼門跡の格式が守られていたのです。なお、現在はいずれの尼門跡も御簾内でお目にかかることはありません。  テレビや映画の時代劇では、将軍と大名が御簾も掛けずに会話を交わしたたり、場合によっては町人や百姓と会話を交わすシーンが出てきたりします。基本的にはそんなことはあり得なかったのです。明治以前は身分・格式を何より尊び、身分がとても大切にされました。またそれらによって社会が成り立っていたのです。だから公に苗字を名乗ったり、帯刀したりたり、家に玄関や床の間を設けたりすることも格式によって許されていました。ちなみ苗字帯刀を許されることは、武門の証である武具等を腰に帯び、百姓と町人を殺害する権利を持つことを表しました。京都東山知恩院の三門楼上に二つの白木の棺が安置され、中には将軍家より三門造営の命をうけた造営奉行五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められています。五味金右衛門は立派に三門造営を完成させますが、工事の予算が超過して金右衛門夫妻はその責任をとって自刃したとされています。このような時代であったことをよく理解すれば納得できる話です。  なお、幕末の勝海舟(安房守義邦)が将軍に拝謁した時の逸話を紹介します。ある時、御用があって将軍が海舟を御座之間に召し出したました。将軍から「それへ(近くに進み出よ)」と声がかかりました。こうした時は拝謁者は将軍の威に打たれ進むことができないということ表して、膝行の素振りだけ見せてその場で拝謁するのがしきたりとされていました。ところが海舟は立って前に進もうとしたため、大目付、御側御用人が慌ててこれを制しました。その後、別室で大目付が海舟の無礼を詰問しました。それに対し、海舟は、「御上からそれへの言葉があったため、前に進み出て国家の大事を言上しようとしたのである。これを制する理由をお聞きしたい。今、天下は未曾有の危機に瀕しているのである。このような時に旧慣例を墨守しようというのはなぜか。私はこのようなことは幕府のためにならないと思う」。これに対し、大目付も返す言葉がなかったとのことです。幕府崩壊の直前、それまでの身分・格式によって成り立っていた社会が大きく変革していったことがうかがえます。このような時代を経て、明治維新ののちに天皇と皇族・華族をのぞいて四民平等の社会になり、それがわが国の発展に資したのです。  テレビや映画の時代劇はあくまでフィクションとしてみないと大きな過ちを犯します。近年、中高生が日本史のテストで大河ドラマで描かれていたフィクションを回答に書くとがあるそうです。とんでも無いことです。 なお、私の小供のころの時代劇や戦争映画の画面は今のものに比べてもっと暗く、そして汚いものでした。よく考えてみると、実際、戦地から復員した人やシベリヤに抑留された人、空襲で焼け出された人など戦争体験者がどこの町内にでも、親戚にもいました。また、さすがに江戸時代に生まれた人はいませんでしたが、明治生まれの人も祖父母の世代でした。そういう人の両親や祖父母は江戸時代の生まれです。だから限りなく江戸時代の感覚を知っていました。作る側も見る側も、今のあんな綺麗な街や、また言葉遣いも今風のタメ口をついたり、また、恋愛や綺麗事の美談にみちたものでなかったことを知っていたからとてもリアルなものだったのだと思います。それに通じるものが韓国のドラマでした。昔のものは今のもののように綺麗なものではなかったです。ただし、韓国のドラマには彼らのこういうふうであってほしいという願望や正しい歴史はこうであったという考えが相当反映しています。  私はよく変わったお茶の先生だとか不思議な先生だとかいわれます!また、同業者でこのようなことをする人は皆無といっていいと思います。かつて家元で修行をしていた後輩(今は廃業していません)に、「木津さんは遅れた汚い国がすきなのですか?」と尋ねられたことがあります。私は即座に「好きだ!」と答えました。その時、私はこいつには何が大切なものかは絶対に理解できない。古人の心はわからないと思いました。衛生的で綺麗な、無色無臭の今の日本に生まれ育った人には絶対に古人の心を理解できないと確信しています。まぁ、必要としない人は別にいいし、また、強要することでもないとおもっています。ただ、私は同じ交通費を払っていくのだから、その国を限りなく理解したいといつも思っています。だから、可能な限りその国の庶民、できれば底辺の人たちの暮らしの場に行き、彼らと同じものを食べ、かたや高級料理も食べ、そして日本食も必ず食べます。日本食が風土・気候・民俗性でどのように変化しているかを理解したいからです。そうすることによりこの国の人たちの一端を知ることができるからです。そしてかつては日本に当たり前にあったもの、今は日本になくなったもの、中世・近代の日本、今日の日本が歩んできたものを実感できると信じているからです。  私は今まで東南アジアや中国・韓国を盛んに訪れ、庶民の暮らし、場合によっては極貧の人たちと積極的に交流し、かつてわが国にもあった当たり前の風習や習俗、そこには貧しさと豊かさの中に臭いや汚れなどの限りなく人間が本来発するものをこの身をもって体験し、彼らが食べる同じものを食べて多くのことを学びました。言葉は全く英語もできませんが、身振り手振りで彼らの家の中に入り仲間に加えてもらいます。ベトナムでは観光客も訪れない田舎の村で、80歳のおばあさんの年賀の会に加えてもらい、いつのまにか席ができて一緒にお祝いしました。チャルメラのセッションもしました。フィリピンでは夜中にスラムの人たちの酒盛りに参加し、挙げ句の果てにはニューハーフの方の家でわずか3畳ほどの部屋であふれんばかりの人たちと盃を交わしました。翌朝、お礼にウイスキーとお菓子を持って挨拶にいき、日本から見れば誠に粗末なものですが、彼らの朝食に加えてもらいました。彼らの歓迎の心がわかり、その場に加えてもらいこれ以上もない美味な食事をいただきました。ミャンマーでは酒を飲めないお寺のある山で、ポーターの青年たちの家で、ロウソクのあかりのもとで闇酒とヘビ料理を肴で杯を交わしで意気投合しました。燈のありがたさ、得体の知れない闇酒ですが、それをたらふくいただき、これからもかつても飲んだことのない美味い酒をいただきました。マレーシアでは夫人が午睡をしているお宅を訪ね、日本から持っていった茶箱で茶会をしました。ここでも夫人がヤシの実を取ってきてくれて、私たちの目の前で鉈で割ってジュウースでもてなしてくれました、カンボジアでは水上生活者の家に押しかけて彼らに取って貴重な白湯をご馳走してもらいました。また、親切にしてくれたツゥクツゥクの運転手の家に押しかけ、小茶会を催しました。そして彼らは私たちのために貴重な鶏を潰して食事を作ってくれて薄暗い中大歓迎してくれました。ジャカルタでは極貧の人たちが住んでいる地域で、30人ほどの貧しくて学校にも行けず、ゴミ拾いをして家計を助けている子供たちが私のために歌を歌ってくれ、そして輪になって遊んでくれました。この歓迎は涙が出るほど嬉しかったです。また、バリではとある村の結婚式に突然参加し、飲食を共にしなから一緒にお祝いしました。これも素晴らしい体験でした。私は運がいいのか、いつも本当に親切な人たちと巡り会い、彼らの大歓待をうけ、この上ない至福の時を過ごさせてもらっています。子供たちの光り輝く目、貧しさにめげずに一生懸命働く人々と出会いもてなしてもらっています。本当にありがたいことです。  これらの体験はまことに貴重なもので、白湯を客に出す意味や、燈の意味、もてなしの心と、その意味を理解させてくれました。それらの体験はまさに筆舌に絶するものです。私にとっては貴重な財産です。私はこのような体験を通じて私たちの先祖が生きていた時代の一端を理解することができたと思っています。そしてこれれらの体験を元にして古文書や文献、また茶の湯の作法や点前についてより理解を深めることができ流と考えています。

 「擇友千歳古(ともをせんざいのいにしえにえらぶ)が私の座右の銘です。吉田兼好の『徒然草』に、


  ひとり燈のもとに書をひろげて見ぬ世の人を友とするぞこよなうなぐさむわざなる


に通じます。常に私は利休や宗旦の生きた時代、その茶の湯の心を少しでも理解できるようになりたいという思っています。そしてそこからこれからの時代に適した茶の湯を見いだすことができると考えています。まさに「温故知新」です。利休の生きた中世の堺や京都は今も東南アジアや他のアジアの国々に間違いなく生きています。進歩発展した私たちの日本にはとうの昔のものとなったものが厳然として存在しているのです。  時代劇も戦争ものも小説も全てがフィクションでなく、歴史的事実に基づいているだけにとても危険です。現実に多くの人が幻想・フィクション・憧憬・希望で考え見ています。あくまで娯楽として見るのでないと。ある意味全く違うものと思ってみないと真実が見えなくなります。


大徳寺明堂宗宣筆一行 擇友千歳古


































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