大崎下屋敷に隠居した不昧は文化元年(一八〇四)から同四年(一八〇七)の四年にわたり、二万坪、二万三千三百四十一両もの巨費を投じて大茶苑を造営した。晩年の不昧はこの大崎下屋敷で、名器蒐集と茶三昧の余生を送っている。その大茶苑は地形を生かした庭園と独楽庵(どくらくあん)はじめ喫茶去(きっさこ)・利休堂・直入舎(じきにゅうしゃ)・為楽庵(いらくあん)など、趣向を凝らした十一もの茶室が散在していた。なかでも独楽庵は利休が長柄橋(ながらばし)の橋杭を秀吉より拝領し、宇治田原に造った茶室で、のちに大坂に移されていたものを不昧がこの地に移築したものであった。しかし、幕末に黒船来航の時に、大崎下屋敷は幕府に収公され跡形も無く取り壊されている。
不昧は、八百善で板場を勤めていた松斎を大崎下屋敷に招き、茶の湯や道具のことを学ぶ機会を作り、それに応えて松斎はその研鑽に勉めた。松斎にとっては、兼ねて不昧が蒐集していた数々の名器を実見しつつ、不昧の茶事の水屋を勤め、直々に不昧の茶の湯の謦咳に触れられたことは何より幸いなことであったと考えられる。
不昧膝下時代の松斎の記録のひとつに、文化八年(一八一一)十月二十日に大崎屋敷独楽庵で催された口切茶事に招かれた時のものがある。連客は大坂屋庄三郎と山口長三郎で末客を松斎がつとめている。
さすが不昧の口切の茶事である。軸は中興名物の北礀居簡(ほっかんきょかん)の墨跡である。北礀居簡は南宋の禅僧で、大慧宗杲(だいえそうこう)の流れに属する拙庵徳光(せつあんとくこう)の法嗣(はっす)で現存する遺墨は少ない。茶入の六条肩衝は大名物で安永七年(一七七八)に、不昧が代金五百両で入手した茶入である。茶碗の井戸「三芳野」は遠州が所持し、のち不昧の愛蔵となる茶碗である。他にも石州の作になる竹一重切花入や道安作の茶杓等、天下の名器を用いている。松斎は茶事の客に加えられることにより、最高の修行をさせてもらっている。
帰坂後も松斎は不昧の格別の知遇を受けている。参勤交代の途次、大坂を通過した折には御国土産として楽山焼の大海茶入を拝領している。ちなみにこの茶入はのちに二代得浅斎(とくせんさい)が華頂宮博経親王に「仙掌」と命銘してもらい、銘の由来となる和歌詠草がそえられている。他にも拝領の香合や茶碗等の道具があり、帰坂後も不昧との交流が続いていたことがわかる。
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