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松平定信好みの楽字香合

執筆者の写真: 木津宗詮木津宗詮

松平定信好みの楽字香合です。桑名藩士中山九左衛門直好が定信から拝領した旨が箱に認められています。


中将様御好ニテ 御自作  世臣中山久左衛門  直好拝領


「御自作」とありますが、作者は青木木米で、定信の「楽」の字型をもとにしています。定信は隠居後は楽翁と号していることから、その記念に作られたと思われます。 松平定信は、田安宗武の七男で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。陸奥国白河藩藩主松平定邦の養子となり、同藩3代藩主となり、のち老中として寛政の改革を主導しました。文化9年(1812)に家督を長男の定永に譲って隠居し、定永時代に伊勢桑名藩への移封となります。定信は高齢により桑名への来往はせず、江戸築地の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送り、文政12年(1829)に72歳の生涯を終えています。そして江戸深川の霊巌寺に葬られ、桑名の照源寺には歯骨と装束が納められました。 定信は書画を能くし、学問に通じた教養人で、著書も多く、特に実例の調査と採図に基づいた事物の考証には、見るべき業績が多々あります。古書画や古器物を収集して編纂した『集古十種』という古宝物図録集を製作させています。天明の大火で御所をはじめ京都の多くの寺社が罹災し、多くの資料が消失したことから模写の必要性を痛感したことによります。これらの中には、現在では既に亡失した刀剣、幻の絵巻、古文書なども含まれています。茶道については、松平家がの遠州流であったから、いわゆる奇麗さびを旨とする遠州流が時代とともに華美に流れているのを憂え、利休の素朴な侘び茶道にもどそうと改革運動を起こし、封建倫理そのものの茶道論を主張しました。そして『茶道訓』を著わして家臣を戒しめ、茶の心得を説いた『茶道掟』、『老の波』、『楽亭茶話』などの本を書き、『茶道元書』62冊を編纂し御家流を開きました。また日本最古の公園とされる1万6千坪の南湖と名付けた庭園を竣工しています。この庭園は塀も柵もなく庶民にも開放されたもので、鴨居や敷居のない8畳2間の共楽亭という茶室も建てられています。これは定信の「士民共楽」、すなわち武士も庶民もともに楽しむという理念によるものと伝えられています。なお定信は、「共楽亭」と題した和歌を詠んでいます。 山水の高きひきき(低き)もへだてなく 共に楽しきまどい(円居)すらしも にその思いを見ることができます。 息子定永の伊勢桑名藩への移封に伴い、定信の薫陶を受けた藩士たちもは桑名へ移住することになります。中山九左衛門もその一人です。『桑名藩分限帳』によると、久左衛門は当初3人扶持で、家督後190石となり、御馬廻・御横目・御物頭・御郡代を歴任し、のちに30石加増され220石になっています。住居が桑名の内堀川端西にあり、桑名藩に仕えた中級家臣でした。加増されていることから、有能な藩士であったことが伺うことができます。時代的には文政から天保期にかけて諸役についていたと思われますので、19世紀第2四半期が活動時期したと考えられます。



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