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松斎・得浅斎・跡見花蹊の故地

執筆者の写真: 木津宗詮木津宗詮

旧梶木町(大阪市中央区今橋4丁目)に、初代松斎が道安囲の卜深庵を構え、武者小路千家の茶家として茶の湯を教授していました。2代得浅斎もここで茶の湯を教授します。ところが明治維新後のかってない茶道界の不振な時期の明治2年(1869)、跡取りの宗税が25歳で亡くなり、それが契機となり得浅斎は梶木町の家を手放し、和歌山県に帰農願いを提出して士族の籍から離れ河内の狭山で農業に従事し、茶の湯を細々と教授しました。なお、現在は鶴屋八幡の隣、大阪倶楽部となっています。



当時の状況はまったく不明ですが、得浅斎の門人で跡見学園の創立者・教育者・画家・書家であつた跡見花蹊の日記にしばしば記されています。花蹊の跡見塾は現在の大阪市役所と中之島図書館の間、現在の大阪市中央公会堂辺りにありました。花蹊は20歳の時から6年間単身で私塾を営んでいた場所です。跡見塾から木津家までは歩いて10分程度の距離で、花蹊は大川に掛かる栴檀木橋を渡って茶の湯の稽古に通っていました。花蹊は茶の湯だけでなく得浅斎の二人の娘とは姉妹のような関係で、しなしば木津家で食事をし、また風呂をもらい湯をしたり、家族で物見遊山に出かけたりする格別懇意な仲でした。

その後、跡見花蹊は京都、東京と移転し、得浅斎と花蹊との交流は絶えたようで、特に二人の交流に関する資料は何も残されていませんでした。 かつて『木津宗詮  武者小路千家とともに』を執筆する際、『跡見花蹊日記』に花蹊と得浅斎、その家族との親密な交流の記録を発見しました。また、本が上梓された後でしたが、得浅斎の七回忌に跡見花蹊が3代聿斎に贈った二行書がめくりで発見され、現在は軸装に改められています。旧梶木町は初代松斎と2代得浅斎、そして跡見花蹊の故地なのです。

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