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執筆者の写真木津宗詮

棕櫚箒(しゅろほうき)

棕櫚箒とは茶事の際、露地の腰掛待合の下座よりの柱に打たれた竹釘に掛けられる飾箒のことです(藪内家では雪隠の中の竹釘に掛けます)。まっすぐで傷のない瑞々しい青竹の柄に、青みの濃い棕櫚の葉を寄せて竹箒のように棕櫚縄(裏千家は藤蔓)でくくりつけ、柄の先端に藤蔓(藪内家は棕櫚縄)を輪にして結びつけたものです。棕櫚箒は清らかな青々した新鮮さが愛でられ、露地により一層の清浄感を添える役割を担っています。この棕櫚箒と対照的な飾箒として蕨箒(わらびほうき)があります。蕨箒は内露地に掛けられ、蕨縄を白竹の柄に縛りつけて固定し、縄の縒りを紐状に解きほぐし、蕨縄ががずれないように白竹の柄に笄(こうがい)とよばれる竹箆(へら)が取り付けられて箒の形状に似せたものです。蕨箒は細かな細工とその形の美しさ、侘びた趣が愛でられます。蕨箒は姿が維持される間は何度も使用できますが、棕櫚箒は本来、茶事のたびに新しく作られるものです。茶事のこの上もないご馳走の一つとして、棕櫚箒の青竹や棕櫚の葉の持ち味は、亭主の心を表しています。

現在、武者小路千家7代直斎筆になる棕櫚箒の図と寸法を記した軸が伝わっています。また、直斎が門人の宇治茶師竹田紹清と河村宗順に語った内容を記録した『茶道聞書』の棕櫚箒に関する記述とをつき合わせてみると、図のようになります(現在、使用されている三千家と藪内家の棕櫚箒の図もあわせて示します。表千家・裏千家・藪内家の箒の詳細は各家元に現役で詰めている親しい友人に協力してもらいましました)。直斎の棕櫚箒の寸法は、全長4尺7寸(141㎝)。現在武者小路千家で使われている棕櫚箒が4尺2寸(126㎝)なので、全長で5寸(15㎝)ほど、そのうち棕櫚の部分は7寸(21㎝)ほど長く、現在のものに比べ相当大きなものでした。『茶道聞書』には「かけて下二三寸も明程計打也」とあります。以上のことから柱の竹釘の位置が4尺9寸から5尺ほどのところに打たれていたと考えられます。現在の武者小路千家では、柱の釘が4尺8寸ほどなので、約3寸(9㎝)ほどの差があります。なお、武者小路千家5代文叔の『茶道秘録全』には「箒を掛る時は箒の先と土座との間五寸程あけて上に打也」とあり、直斎の『茶道聞書』の寸法とも異なります。江戸時代、武者小路千家は3度にわたり火災に遭いました。茶室の再建にあたり、その時の家元の考えによって釘の位置や棕櫚箒の寸法が変遷し、今日見られるものとなったと思われます。また、形状も現在のものと比較すると、いくつか相違点があります。まず、棕櫚の葉先が切り落として揃えられずそのままの状態です。切り揃えられている今日の棕櫚箒に比べると、自然の素材である棕櫚の葉を十分に吟味し、決められた寸法を厳選しなければならない困難さがあります。さらに、現在は棕櫚の葉の部分が三カ所棕櫚縄で結びつけられているのが、二カ所となっています。

本来、一度きりの道具であることから考えると笄が用いられていなかったことは最もなことであると思います。柄の青竹の節の数は現行のものと同じく3つとなっています。箒の図には、一番上の節と柄の端との間が3寸2分とわざわざ明記されており、『茶道聞書』にも同じ寸法が記されていることから、この部分の寸法を特に大切に考えていたようです。

箒の製作は基本的に庭師が携わります。竹の太さと長さが決められています。そして節の数も3つ(蕨箒は白竹で4つ)となっていてそうした竹を探すのは大変困難なことです。何十本の中の一本しか見つけることができません。また、開きすぎた棕櫚の葉は使うことができないので十分に吟味したものを用いなければなりません。決して主役となることのない露地の道具ひとつである棕櫚箒にいたるまで、亭主とそのスタッフは最新の注意を払うとともに、十分に心を込めてその製作にあたって客を招いているのです。茶事の客となる時、私たちはこうした脇役にとくと心を割いてよく拝見しなけれななりません。そうでないと亭主とそのスタッフの心づくしを真に理解することができません。茶事とは楽しいだけでなく、まことに厳しいものでもあるのです。

写真は順に、腰掛待合の棕櫚箒、蕨箒、腰掛待合の箒を掛ける釘


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