湊川神社献茶祭

更新日:2019年8月26日




 このたび、湊川神社の献茶祭を家元が奉仕する。その副席を卜深庵が担当することとなった。そこで釜を掛けるにあたり、ご祭神楠木正成公の認識を深めるべく、その故地である千早赤阪村を訪ねた。

 楠木正成公は南北朝の武将で、河内国の土豪で橘氏嫡流の為政(ためまさ)の後裔楠木正遠(まさとお)の子とされている。幼名多聞丸(たもんまる)。鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公(だいなんこう」と称されている。

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇は、幕府打倒を目指して京都で挙兵する。楠木正成公で笠置山(かさぎやま)の戦いで敗北した後、およそ500余りの兵力で数万の幕府討伐軍と戦う。幕府側は初戦だけで七百名の兵を失い、持久戦に持ち込んだ。二十日で食糧は底を尽き、後醍醐天皇は捕えられ、正成公は城に火を放ち自害したと見せかけて脱出する。その後、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)に配流され、討幕側の主力の日野俊元(ひのとしもと)や北畠具行(きたばたけともゆき)、日野資朝(ひのすけもと)らは斬罪となった。

正慶元年(1332)、正成公は再挙兵し、上赤坂城(かみあかさかじょう)や金剛山(こんごうさん)に築いた山城でゲリラ戦法などを駆使して幕府軍を相手に奮戦した。正成公は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の四天王寺(してんのうじ)を占拠する。これに対し、幕府側は幕府最強の宇都宮公綱(うつのみやきんつな)を差し向ける。正成公は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成公の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。正成公はこの時、「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評して公綱の武勇を恐れ、兵を退いている。

 その後、千早城で正成公は僅か千人足らずの小勢で百万と号する幕府の大軍を迎え撃つ。『太平記』に、


 城の四方ニ三里が間は見物相撲の場の如く、打井んで尺寸の地をも余さず充

 満せり


とあり数十倍の大軍が千早城に押し寄せている。地元の土豪などの協力もあり、幕府側の兵糧を断ち、幕府軍からは数百単位で撤退する部隊が続出し、九十日に渡って大軍を相手に戦い抜いている。ちなみに、赤坂城、千早城の合戦の後日、正成公は、敵・味方の戦没者を弔うためのに、供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なっている。この供養塔には“敵”という文字を使わず、代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使っている。そして、寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きくしている。

正成公は建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍する。後醍醐天皇の側近として名和長年(なわながとし)、結城親光(ゆうきちかみつ)、千種忠顕(ちぐさただあき)とともに「三木一草(さんぼくいっそう」と呼ばれた。尊氏の離反後は南朝側の軍の一翼を担うこととなる。

 建武三年(1336)、正成公は後醍醐天皇に、状況が宮方に有利なうちに足利尊氏と和睦することを進言する。それに対し、天皇はこれを退け、新田義貞(にったよしさだ)を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。足利尊氏は九州から大軍を率いて東上を開始し、義貞は西国で敗退を続け、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。後醍醐天皇は援軍として正成公に出陣を命じる。尊氏軍三万五千に対し、正成軍はたったの七百。戦力の差は何と五十倍であった。五月二十五日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、楠木軍に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵まで出た。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山えげやまに布陣した。戦力の差は歴然としており、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する。しかし、楠木軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、尊氏はついに一斉攻撃を命じた。六時間後、正成公は生き残った七十二名の部下と民家へ入り、念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成公は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺し果てたという。享年四十二歳。

 明治5年(一八七二)、明治天皇が正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、五月二十四日、湊川神社が創建された。なお、明治十三年(一八八〇)には正一位を追贈され、同社の旧社格は別格官幣社であった。

昭和十年(一九三五)の大楠公六百年大祭には献茶講が作られ、献茶祭も藪内・表千家・裏千家・武者小路千家・堀内家・久田家の輪番制で奉仕され今日に至っている。戦前は春と秋の二回であったが、戦後からは年一回、五月のみ斎行されている。武者小路千家では、昭和十三年(一九三八)、先々代家元愈好斎が奉仕をし、これを記念して新たに建茶道具一式が奉納されている。当時の記録によると、


 一、御台子    点茶台           小兵衛作

 一、御釜     霰釜 蓋菊水文       清右衛門作

 一、御丸炉                  同

 一、御水指    青磁一重口 非理法権天ノ意 蘇山作

 一、御杓立    同             同

 一、御建水    同             同

 一、御蓋置    同             同

 一、御長盆    黒             一閑作   

 一、御濃茶入   松棗 黄漆菊水文      宗哲作 

 一、御濃茶器袋  菊水文白羽二重 紫緒    友湖作

 一、御濃茶天目  菊水文 赤楽  吉左衛門作 蘇山 白磁

 一、御濃茶天目袋

 一、御天目茶器  溜一双           一閑作