水飲の名称は、道の南下に音羽川がありその流れの水で人々の疲れや渇きをいやしたことからつけられたとされています。そこで雲母坂を「水飲坂」ともいいます。かつてはここに建物があり、上り下りする者に薬湯を提供したという伝もあります。
天台座主良源の「二十六ヶ条起請」には、籠山僧の結界として、東は悲田、南は般若寺、西は水飲、北は楞厳院とされています。かつて比叡山の僧は、水飲から外に出ることが禁止されていました。また雲母坂は、都から比叡山に登る主要道路で、天台座主補任の勅使が登る道として用いられていました。
「水飲対陣之跡」の石碑は大正10年(1921)に建立されたもので、碑文は以下の通りです。
延元元年ノ乱、中将忠顕卿官軍ノ将トシテ四明嶽ヲ防キ給フ、賊西坂ノ三方ヨリ攻寄セタリ、官軍水飲ノ地ニ攻下シ対陣ス、翌賊大軍後方ヨリ襲フ、衆寡敵セズ、卿水飲ノ地ニ戦死シ給フヨシ太平記ニ見ユ
大正十年夏日 掃雲千種顕男誌
『太平記』によると、延元元年(1336)6月、湊川の戦いで敗れた官軍は、足利尊氏の攻撃を防ぐため京を捨てて比叡山に立て篭もりました。尊氏軍は比叡山の西坂・雲母坂から攻め上り官軍と対峙しました。官軍は水飲で空掘を造り、垣根のように楯を立て並べてて陣を築きましたが、6日早朝に尊氏軍は三石岳・松尾坂・水飲より三手に分れて攻撃を開始し、千種忠顕と坊門正忠が三百余騎で防戦しましたが、松尾坂より攻撃してきた尊氏軍に背後を突かれて全滅したとあります。千種忠顕は,後醍醐天皇の信任厚く、建武政権では従三位参議、三カ国の国司に補任されました。水飲は延元元年6月7日に千種忠顕が戦死した地にあたります。
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