• 木津宗詮

初代松斎宗詮21 法要の形式

最終更新: 2019年10月5日

 この法要は三千家家元が施主として、菩提寺である大徳寺塔頭聚光院で行なわれた。『空華室日記抜録』(愈好斎が、大綱の『空華室日記』の茶道に関することを抜書きしたもの。以下『日記抜録』)には、二百五十年忌は聚光院で施餓鬼法要として行なわれ、出頭の僧侶に食事(斎)を供養している。『諸事扣』によると、法要は朝五ツ頃(午前8時頃)から始まり、当日の天候は快晴、大徳寺一山総出頭により盛大裡に営まれた。聚光院の輪番住職の清泉寺せいせんじの新州宗民しんしゅうそうみんが法要に関するすべてのことを差配している。高桐院(こうとういん)の子院泰勝庵(たいしょうあん)の真峯(しんぽうが導師を勤め、大綱が脇導師であった。この時の大綱の追福の偈は『日記抜録』に、「飽参竜宝蒲庵主、認得喫茶趙光風、積善長余無限慶、松音不断道流隆」とある。出頭の和尚の数は、『日記抜書』には61人とある。そして三家の当主をはじめ、内室、家内一統、業体(ぎょうてい)、各家の地方の門人、職方が参列している。業体とは一家の業を引継ぐという意味から転じ、茶道の家元に居住してその道の修業をする者、内弟子のことで、当時、この語は三千家ともに使われていた。『諸事扣』によると武者小路千家の参列者は以心斎のほか大後室知法(ちほう・一啜斎未亡人)、若後室知昌(ちしょう・好々斎未亡人宗栄)、松斎、得浅斎、柳(りゅう・松斎妻)が記されている。門人の参列は、『大西浄雪手記』(以下『手記』)によると150名とある。

 参列者の休息所は『手記』に、三千家それぞれ山内塔頭のいずれかを休息所にあて、そこで改服の上法要に参列している。なお参列者は茶堂で香儀料(御供)の受付を済ませ、そこで人数分の飯札(食事券)を渡されている。次に参列者の服装については、表千家社中の大森勘平の『利休居士二百五十年忌大徳寺衆光院ニテ法事執行ノ図』(以下『執行ノ図』)によると門人・出入りの職方は上下(裃・肩衣)を着用していたと記録されている。そして『諸事扣』によると、家元以下の業体は熨斗目十徳(のしめじっとく)を着用していた。女性は大徳寺までの道中は白羽二重(しろはぶたえ)の上に黒羽二重を着、白茶緞子(しらちゃどんす)の帯を締め、婦人が外室時に顔をかくすための遮蔽具である被衣(かずき)で頭をおおい、大徳寺では白羽二重の上に白綸子(しろりんず)の打掛うちかけを着用している。

 法要が七、八分進行した時分に吸江斎一人が座を立ち、室中手前で脇差と扇子を帯から抜き、内陣の利休居士像の前で焼香し、続いて玄々斎、以心斎も同様に焼香している。但し、以心斎は眼が不自由なため松斎が付添い、次に松斎、住山楊甫、堀内宗完以下三千家の業体が焼香をした。『執行ノ図』にある通り、法要終了後、出頭の僧侶の食事(斎)がその場で出され、門人たちはそれぞれの休息所で食事が出されている。僧侶の食後に門人たちの焼香が行なわれ、墓所の参拝も同様であったようで、『諸事扣』も、法要中は他の参列者の焼香は無かったとある。なお『諸事扣』に僧侶の膳が済んだ後、天目茶碗で茶を点て「宗左、宗室、楊甫、拙 右四人ニ而はこび出ス」とある。

 『諸事扣』と『手記』には前日の廿七日の九ツ時に逮夜の法要が聚光院で営まれたことが記録されている。吸江斎と玄々斎、以心斎、以心斎の付添いとして松斎の四名が参列している。逮夜法要終了後、別室で出頭の和尚に吸物と酒が出され、吸江斎以下四名も相伴している。

 29日にも大徳寺の主催になる法要が行なわれている。『日記抜録』に9月22日の評席で、利休が山門を寄進した大壇越であるということで、方丈で斎会(さいえ)・法要を営むことを大綱が提案し、決定している。そして『諸事扣』には、29日に方丈において大徳寺一山出頭、三千家家元のみの参列になる斎会が営まれている。当日は吸江斎、以心斎、付添いとして松斎が参列している。玄々斎は不快ということで代参であった。法要終了後、方丈で大徳寺より斎が出されている。なお山門での法要の案も出たようで、『手記』にはかって山門での法要を営んだことが無いので、この度、特別に行ないたいとの大徳寺の意向であった。しかし、9月20日に玄々斎と住山楊甫が大徳寺に赴き断っている。これは9月8日から裏千家で追善茶事が始まったことと関係があるようである。ちなみにその後の年忌でも山門での法要は行なわれず、平成2年の四百五十年忌で、2月28日に聚光院前住職小野澤寛海和尚を導師として、三千家内輪により法要が営まれている。



聚光院本堂


聚光院 利休像

大森勘平筆『利休居士二百五十年忌大徳寺衆光院ニテ法事執行ノ図』

家元以下の業体は熨斗目十徳を着用した 初代木津松斎宗詮

婦人が外室時に顔をかくすための遮蔽具である被衣 『江戸服飾史』より



女性は大徳寺までの道中は白羽二重の上に黒羽二重を着用し、白茶緞子の帯を締め、被衣で頭をおおった

聚光院では白羽二重の上に白綸子の打掛うちかけを着用した 『江戸服飾史』より


門人・出入りの職方は上下(裃・肩衣)を着用した


大徳寺三門金毛閣

平成2年2月28日に聚光院前住職小野澤寛海和尚を導師として、三千家内輪により三門での法要が営まれた時のその際の香語



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