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洋人禅窟・為楽居

執筆者の写真: 木津宗詮木津宗詮

八幡市の臨済宗妙心寺派円福寺僧堂の洋人禅窟・為楽居は、昭和8年に木津家3代聿斎宗泉が設計して建てた好みの茶席です。四畳半本勝手で、台形の床でその左の壁面が円窓となり、その向いが二畳の板縁でガラス障子の窓があります。そして妙喜庵待庵と同じ寸法の大きめの躙口と貴人口があります。まことに明るい茶席で、当時、アメリカ人の信者の寄進で建てられたことから、洋人禅窟とも呼ばれました。

かつてアメリカ人信者の孫が円福寺僧堂を突然訪ねてきて設計図を同寺に納めたとのことです。同寺にも当家にもその図面は伝わらずまことに貴重な資料です。ちなみにその信者とも家族とも円福寺はまったく交流がなかったそうで本当に不思議な縁です。



ちなみに同寺には昭和3年に外人参禅者のために「外人禅堂」が建立されていました。外部は和風、内部は洋風で、各部屋に内仏がありその前で座禅をし、ベッドや机も備えられていました。そうしたことからこの茶室も躙口も通常より大きく取られ、また、板縁も通常なら掃出口が設けられるのが、ガラス障子の窓という破格の構えになっているのも、欧米人が椅子に掛けて喫茶できるように工夫したものと思われます。











同寺と当家とのご縁は、大正11年(1922)に聿斎が松花堂が住した男山瀧本坊の遠州好みの茶室閑雲軒を泰勝寺境内に復興するにあたり、その設計建築に当たったことから始まります。なお、瀧本坊は明治の神仏分離の際に廃され、その後、松花堂昭乗の墓石は男山山麓にひっそりとさらされていたのを、大正7年(1918)に円福寺住職で妙心寺管長でもあった神月徹宗が、熊本にあった細川家の菩提寺泰勝寺の寺号を移して滝本坊を改めて泰勝寺としました。


このようなご縁から聿斎が洋人禅窟・為楽居の建築をさせていただきました。ところが、昭和12年(1937)に神月徹宗が不慮の事故で遷化し、また、聿斎も昭和14年(1939)に亡くなり、戦争や戦後の混乱により同寺との縁も絶えていました。父露真も円福寺についてまったく知らず、また同寺との交流の記録も残されていません。

図らずも5年前に同寺僧堂師家の政道玄室老師に相見が叶い、親しく隠寮で1時間余りお話しをさせいただきました。格別のご高配により茶室はじめ禅堂に至るまで2時間にわたりご案内いただき、また、撮影のご許可もいただきました。円福寺と木津家のご縁が80年ぶりに再び結ばれました。

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