• 木津宗詮

無手の法悦(むてのしあわせ)

 過日、銀座のさる店のママが京都市山科区の勧修寺の生まれということから大石順教尼の話で盛り上がりました。ママが小学生の時に順教尼の孫と一緒に書道を習ったとのことでした。直接接したのが子供の時だったのでほとんど記憶にないとのことですが、その温和な顔は今も念頭に焼き付いているとのことでした。両親や周りの人から聞いた話をしてくれ、私も順教尼の白蔵主の軸を持っていることから、自伝の『無手の法悦(むてのしあわせ)』を読みとても感動したことなどでひとしきり話に花が咲きました。写真は私の所持している白蔵主図です。署名は「勧水のほとり 無手庵順教(印)」とあり、絵も文字も筆を口にくわえて書かれています。

 その後京都に戻り、順教尼が晩年に過ごした山科勧修寺の可笑庵を訪ねました。偶然、月に一度の「大石順教尼 大塚全教尼をしのぶ月例会」が催されていました。月に一度だけの公開の日に当たるというのにとても不思議な縁を感じました。


大石順教尼画「白蔵主図」。署名は「勧水のほとり 無手庵順教(印)」とあり、絵も文字も筆を口にくわえて書かれている。


 大石順教尼は、明治21年(1888)大阪道頓堀の二葉寿司の長女として生まれ、よねと名乗りました。西川流の舞を精進し、11歳で山村流の名取を許され舞の師匠となります。明治34年(1901)13歳の時、堀江の山梅楼(さんばいろう)の芸妓になり「妻吉(つまきち)」と名乗り、その主人である中川萬次郎の養女となりました。明治38年(1905)17歳の時に養父の萬次郎が内縁の妻に対する邪推から楼内で刀を振るい、6人を殺傷する事件を起こしました。当時、世を震撼させた「堀江六人斬り」です。事件に巻き込まれた妻吉は両腕を切断されながらも一命をとり止めました。退院後、両親を養うために寄席の舞台に立ち、19歳の時に2代目三遊亭金馬の一座に入り、松川家妻吉の名で旅巡業をはじめました。その間、カナリアが嘴で雛に餌をやるを見て、鳥は手がなくても一所懸命に生きていることに気づき、両手のないままに口に筆をくわえて独学で書画を勉強をし、のちにその技法を習得します。22歳、大阪生玉持明院住職の藤村叡運に国文学を師事します。のちにその非凡な才能を示して口で認めた「般若心経」が日展に入選しています。

 明治45年(1912)24歳、日本書画家山口草平と結婚、翌大正2年に長男、大正6年(1917)に長女をもうけました。しかし、夫の不倫により、昭和2年(1927)39歳の時に協議離婚をし、身体障害者の相談を始めます。その後、子供を抱えて東京・渋谷で更紗絵を描いて生計を立て、昭和6年(1931)に大阪の高安に無手庵を建て、堀江事件の霊を弔うため尼僧を志し、婦女子のための収容施設を作り教育をしました。昭和8年(1933)45歳、高野山金剛峰寺で得度し、名を「順教」と改めます。昭和11年(1936)48歳の時に京都市山科の勧修寺に移住して身障者の相談所「自在会」を設立し、自分と同じ立場の身体障害者の自立を支援する福祉活動に励みました。昭和22年(1947)59歳、勧修寺山内に佛光院を建立しました。74歳の時には東洋ではじめて世界身体障害者芸術家協会の会員に選ばれています。昭和43(1968年)4月21日、心筋梗塞により佛光院で80歳で亡くなり、遺体を献体し京都大学医学部で解剖しています。  事件直後、入院していた時の順教尼の逸話に、病院の婦長さんが、あなたの命を助けたのは医師や他の力もあるがそれだけではありません。あなたはこれからなみなみならぬ辛く苦しく悲しい年月があるでしょう。人生の荊の険しい山や谷があるでしょう。しかし、あなただからこそこの辛い使命を負うだけの覚悟が持てると神仏が思し召して助からぬ命を助けて下さったのです。私の言いましたことをいついつまでも忘れずにいてください。又この後、何か私に出来る事あればいつでもご相談して下さいという内容だったそうです。なんともいえない光り輝く励ましです。順教尼はこの励ましをしかと受け止めてこの試練を乗り越えたのです。このようなことを書くと誤解されるかもしれませんが、単に医師の補助をし病人の世話をする看護婦を超えた素晴らしい、そして偉大な人です。当時はこのような偉大な無名の看護婦さんがいたことに驚きです。  また順教尼は義父萬次郎の悪口を生涯一遍も言わなかったそうです。萬次郎の死刑執行の日が近づくと、萬次郎は一目会って詫びたいとの手紙を書き、順教尼は刑務所に面会に赴きました。萬次郎は「俺は自分の罪に苦しんでいる。なんで、あんなことをしたのか記憶にないんや。詫びて済む事ではないが、どうしても、おまえに言いたい事があったんや。わしは死んで地獄に落ちるが、わしの魂は死なん。お前の身をきっと守る。呼んでくれたら、必ず助けに行くからな」と言いました。そして順教尼は萬次郎の罪が軽くなるなら何でもしますと嘆願したそうです。のちに死刑が執行され、その遺骨を順教尼は引き取り四天王寺に墓を建てて供養したとのことです。ちなみに順教尼は人生の危機をむかえるたびに萬次郎の名を呼んでその試練を無事に乗り越えることが出来たそうです。自分の腕を切り落とし、その人生を無茶苦茶にした人を手放しで受け入れた順教尼の慈悲の心に驚嘆します。なお、昭和12年(1937)に順教尼はヘレンケラーと会見しています。ヘレンケラーは順教尼を「世界の奇蹟」と称賛したそうです。

 なお、順教尼は健常者が、救いを求めたり悩みや不運を話すと、「両腕のない私に何を求めるの。どうしてもというなら、樹に両腕を後ろ手に縛られて、3日間、そのままで暮らしなさい」と言ったそうです。想像を絶する苦難の道を歩んできた順教尼にとっては健常者の不幸や不運は単なる甘えとしか映らなかったのでしょう。

 可笑庵では順教尼の生涯を紹介するDVD、引き続きその遺作や生涯を紹介する展観を観せてもらいました。そこに順教尼の孫で「大石順教かなりや会」の大石晶教さんが親しく順教尼の逸話をいろいろとお話しくださいました。その中で特に印象に残ったのが高野山に自身の腕塚が建てられた時の話です。切られた両腕がホルマリンで保存され実家の墓に納められていました。晩年、順教尼が亡くなった時にお骨とともに腕も埋葬されるようにと返されることになったそうです。それに対し順教尼はそれを拒みました。常々腕がなくなって幸せになった。生まれ変わっても腕のない人でありたいと。なぜなら「腕があれば腕の悩みが生まれるので腕はいらん」と。そこで高野山に腕塚が建てられそこに収められたとのことでした。「腕はいらんと」という境地、私にはとうてい想像できません。両腕を切られるという地獄の体験をし、そのため舞の道を極めるという思いも断たれ、生活のために見世物興行に携わり、結婚、出産、そして離婚。その後は出家して身体障害者の自立を支援する福祉活動に励み、また書家として画家として活動しました。苛酷な運命を受け入れたといううものの何度も自殺を考えたそうです。その苦難を乗り越えて、加害者を恨むことなく、仏に帰依し、多くの人々に生きる希望や勇気を与え、『日本のヘレン・ケラー』とか、身障者の心の母、慈母観音と慕われた生涯でした。

 なお、順教尼の大石晶教さんの許可を得て写真を撮らせていただき、またご紹介するお許しをいただきました。今は順教尼を知る人もほとんどいなくなりました。大石順教尼という世界に誇る慈悲の人、いや菩薩様を一人でも多くの皆さんに知っていただきたく思っています。


悲しいことがあったら、笑いなさい。つらいことがあったら、笑顔を人に差し上げなさい。それによってしか、私たちの笑顔はつくれないんだ

しないことと、できないことは違う

くちに筆とりて書けよと教えたる 鳥こそわれの師にてありけれ

学ばざる身なれど文字を書くという そのよろこびをくちに筆かむ

つみふかくあわす手もなき身をもちて 大師のみ子となるぞ嬉しき

何事もなせばなるちょう言の葉を 胸にきざみて生きて来し我れ














これらの作品ははすべて口に筆をくわえて書かれたものです


日展に入選した口で認めた「般若心経」

可笑庵




順教尼の遺品

高野山に建てられた「腕塚」




在りし日の順教尼



別れの挨拶

昭和22年(1947)59歳の時に勧修寺山内に建立された佛光院


可笑庵外観

順教尼の大石晶教さん




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