王鞬南(おうけんなん)

黒谷金戒光明寺の塔頭西雲院はは、安土桃山時代の慶長文禄の役で捕らえられて日本に連れて来られた李氏朝鮮の宗厳が開基になる寺です。





西雲院の山門をくぐった左側に、蓮台に坐して左足を垂らし右足を左足の太ももの上で組んだ半跏趺坐(はんかふざ)で、右手に蓮華を持ち、チベット仏教のラマ僧のような帽子を被ったちょっと風変わりな石仏があります。住職の話によると観音菩薩とのことです。蓮台の下の基壇正面には「大明国 福建道 福清県 六親法界等」、右側面には「杳山王鞬南居士」と刻まれています。








王鞬南という人物については多くのことは伝わっていません。今日伝わっていることは、慶長元年(1596)医師として日本に帰化し、元和年間にこの西雲院開基である宗厳を頼り落髪し、西雲院に寄寓したそうです。詩文や筆法にま精通していました。そして正保2年(1645)に没しています。

利休さんの孫の宗旦さんは40年にわたり「けんぬんの病」で苦しんでいました。「けんぬんの病」とは「懸念の病」、すなわち鬱病のような気の病のことで、宗旦さんは王鞬南の処方した「順気湯」という薬を飲み「土用中、一ふくも薬不承時々給候、四十年のはつにて、可心易候」夏の暑さの厳しい土用にも薬を飲まず、四十年来初めてのことであると息子江岑に当てた手紙に認めています。他にも「我等寒中咳気も不申、四十なき事にて、日々振舞ニニあり候」とか、「いつもノ無病之時のことくニ朝とくからおき、茶湯しかけ」とか、「いつもの能時ゟもまめニ食、貴所ノ食程三度ツ、ソリ申候、かミも三日二一度つ、ソリ申候、ニ三所へ茶湯ニ行申候」とか、「気力卅計ノ時のやうニ候」と同じく江岑に知らせています。宗旦さんは王鞬南の薬のおかげで体調も本格的に回復したようです。

西雲院の宗厳は朝鮮から連れてこられ、蜂須賀家政により北政所に 献上され、滝川雄利の息女の召し使いにされました。宗厳はまめまめしく仕えますが、宗厳30歳のときに17歳で息女が亡くなりました。宗厳は世の無常を感じ、知恩院第29世の満誉尊照を師として出家して、11年間諸国を巡る修行しました。そして黒谷に到り 滝川雄利が息女の菩提を弔うために建立した竜光院のの墓前で念仏を唱え続けました。宗厳の真摯な姿を見た金戒光明寺第27世了的は法然上人ゆかりの紫雲石を宗厳に授け、宗厳は西雲院を開山しました。紫雲石とは、法然上人が比叡山を下り、この黒谷の地で半畳程の大きさの白河石に腰を掛け念仏を称えると紫色の雲がたち、ここに草庵を結び、後に白河禅房と呼ばれ金戒光明寺に発展した由緒深い名石です。







一心不乱に念仏を唱える宗厳の下には多くの僧侶が集まり、宗厳は寛永5年(1628)に遷化しました。その死後も、万日念仏惣回向、三万日念仏惣回向、四万日念仏惣回向(100年)と続けられました。

西雲院の住職によると、宗厳の西雲院は朝鮮出兵で連れて来られた人や、明の滅亡により日本に亡命した人たちなど、遠く故国を偲ぶ人たちのサロンのような場であったとのことです。

西山に沈む夕日を正面に見る西雲院に、念仏三昧ではるか十万億土西にあるという極楽浄土に一心に往生することを願った多く他国の人たちの姿が偲ばれます。


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