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執筆者の写真木津宗詮

初代松斎宗詮16  紀州家仕官

更新日:2019年10月5日

 天保2年(1841)2月、松斎55歳の時、紀州徳川家に小納戸役(こなんどやく)として仕官し、十五人扶持を与えられている。松斎の紀州徳川家仕官の経緯の詳細については不明であるが、前出の通り、松斎の祖父にあたる願泉寺34世観龍は紀州家家臣堀田家から養子に入っている。また、参勤交代の途次、願泉寺が陣屋にあてられている等、紀州徳川家とは浅からぬ縁があったことによるのであろう。

 松斎が仕官した時の紀州藩主は11代斉順(なりゆき)であったが、実質的には先代藩主治宝(はるとみ)が和歌山の西浜御殿を居所として、隠居後も28年にわたり藩政の実権を握り続けていた。特に御仕入方おしいれかたと呼ばれる藩の専売事業や熊野三山貸付所の利権を掌握し、藩の予算に影響力を与え続けていた。

 治宝は学問を奨励し、和歌山城下や江戸赤坂紀州藩邸松坂城下には学問所を開設し、本居宣長(もとおりのりなが)や同大平(おおひら)を召し抱えている。表千家9代了々斎(りょうりょうさい)や楽旦入(たんにゅう)・永楽保全(ほぜん)・仁阿弥道八(にんあみどうはち)・二代久楽弥介(きゅうらくやすけ)等を西浜御殿に招き、また偕楽園焼(かいらくえんやき)や男山焼(おやまやき)・瑞芝焼(ずいしやき)を創窯し藩の御用品を製作している。このように治宝は文化・芸術面での功績が非常に大きい。なお、御三家の当主で唯一生前に従一位に叙せられたのは治宝ひとりで、和歌山では「一位様(いちいさま)」と呼ばれている。

 松斎は大坂在住で、主に大名貸しをしていた大坂の有力商人との折衝を行っていたとされている。また小納戸とは藩主の身の回りの世話をする役で、実質的には隠居の治宝に仕えたようである。なお、治宝は雅楽の楽器蒐集家として当時右にでる者がなく、雅楽の造詣の深い松斎は、大坂の地で治宝の楽器買い付け等に関わっていたと考えられる。表千家の家元や同家の住山楊甫すみやまようほも同様で、和歌山に常住するのではなく、京都や大坂に居を構えて仕える者を紀州徳川家では「旅宿(りょしゅく)」といい、用があると和歌山なり江戸に呼び出していた。


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