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執筆者の写真木津宗詮

聿斎設計 山本藤助邸四阿

三代聿斎宗泉が、大阪市阿倍野区北畠に帝塚山学院の創設者の一人である二代山本藤助(鉄鋼業・山本藤助商店)邸を大正中期に設計している。 面積が約4000坪(13,200平米)の敷地に豪壮な客殿や数棟に分かれた母屋や土蔵などが延400坪(1,320平米)もある豪邸であった。 そしてその広大な庭園は大園遊会ができるように造られていた。その後、この邸宅は取り壊され、4畳半茶室は「好逑庵」と名付けられて帝塚山学院大学狭山キャンパスに移築されている(卜深庵の点描「山本藤助 北畠別邸「南華園」参照」。また、庭園の要所に巧みに配されていた李氏朝鮮時代の墳墓表飾石造遺物も、昭和50年(1975)に二代山本藤助の孫山本アヤにより、文官・武官などの石人13躯、石羊2頭、石灯籠2基、石造方台(魂遊石)8基、そして望柱石二対を柱として建てられた聿斎設計になる四阿が京都国立博物館に寄贈されている。。なお、その跡地は大阪市に寄贈され、現在、晴明丘中央公園として市民の憩いの場になっている。

 聿斎の茶の湯は、本来の目的でないものを巧みに応用し、そこに妙味を発揮させるものであった。「軽快・洒脱・融通」がいろいろな形となって現れてくるが特色であった。そしてそれは材料そのものの本質を見極め、それを上手に使いこなすことがわびの心を重んじることであるとの信念によるものであった。この四阿も、山本藤助の李朝墳墓表飾石造遺物のコレクションを巧みに利用・応用した建造物であったと思われる。ちなみに望柱石を用いた他の建造物に、山中定次郎南禅寺別邸「看松居」(現、桜鶴楼)庭園の中門も柱として使用されている。なお、望柱石とは墓の前方両側に一対にして建てる石造の柱のことである。遠くから墓の所在がわかるように、また霊魂が自分の墓を探す時の目印とし、墓との境界を表すものとして建てられたものである。形状は頭部が蓮花の形で、片方は柱を登り、もう片方は柱を下りている栗鼠の姿が刻まれている。  北畠の山本邸の庭園では、池に張り出した四阿として建てられていた。京都国立博物館では本館東庭に移築されていたが、老朽化が激しく、4本の望柱石の内の一本が折れていて、また韓国から望柱石を柱として使用していることにクレームがついたことから、本年3月に詳細に調査した上で解体されている。なお、この四阿の部材は大切に保存されていて、今後、望柱石は用いず木造の柱で再建される予定である。  写真は北畠の山本邸の庭園当時の四阿と、京都国立博物館移築後のものである。実測図は安井杢工務店が解体時の調査で作成したものである。



山本藤助北畠別邸(南華園)の建築当初の四阿


京都国立博物館 移築当時


京都国立博物館 解体前


図面(資料提供:安井杢工務店)


山中定次郎邸 中門(参考)


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