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聿斎 朝鮮渋茶炮烙

執筆者の写真: 木津宗詮木津宗詮


聿斎は生涯に三度、茶室・住宅の設計建築のために朝鮮に赴いている。第一回が明治42年(1909)、迫間房太郎 (はざまふさたろう)の東莱(とんね)(釜山)の別邸の設計・建築であり、第二回が明治45年(1912)京城(けいじょう)(現、ソウル)、第三回が大正2年(1912)秋に朝鮮銀行副総裁の水町正(みずまちただし)の屋敷の設計建築のために京城に渡っている。

 この時、聿斎は曺徳宗(そうとくそう)の陶窯で渋茶灰器を99個作らせている。そしてその箱書を当時大徳寺僧堂師家の川島昭隠(かわしましょういん)(槐安軒(かいあんけん))が記し、その甲書きを聿斎がしている。これは大正4年(1915)4月22日に落慶した聚光院の本堂と茶室の改修の資金捻出のためであった。





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