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興宣大院君(こうせんだいいんくん)

大院君画「蘭図」です。

興宣大院君(こうせんだいいんくん)は1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年十一月十六日) - 1898年(光武2年)2月22日(時憲暦二月初二日))は、李氏朝鮮時代の高宗の実父で、本名は李昰応で、元来「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号ですが、李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君をさします。

若い頃の大院君は朝鮮王朝の王族の一人として生まれましたが不遇な生活を送りました。。1863年、哲宗が嗣子無くして没すると、次男・高宗が後継ぎの国王として即位することとなり一躍国王の実父となり、大院君の称号を与えられました。高宗は即位当初は幼年であったため、成人するまでは大院君が摂政となって政務を取り仕切っりました。

大院君はそれまで朝鮮王朝で続いていた外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした改革を断行しました。反面、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧しました。これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退しています(丙寅洋擾)。また通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとしました。外交面や宗教面では排斥政策を展開し、アメリカや日本などの通商要求を拒絶し、各地に砲台砲兵を配備し、砲台砲兵の新規増設増員(2万余)を行いました。また景福宮の再建工事には、多額の経済的な負担が伴い、各種の増税、新税の施行でまかなったために経済は疲弊しました。

高宗が成人し、やがて国民の間でも大院君の強引で強硬的すぎる対外政策や内政に対する不満から大院君は1873年、高宗の王妃・閔氏一族の反撃を受けて失脚してしまいました。その後、閔氏から実権を奪い返すため、壬午事変など何度も政権転覆を図りましたが失敗し、1895年閔氏を殺害したものの(乙未事変)、二度と政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で没しました。

大院君と閔氏の対立は、日本の朝鮮進出や朝鮮時代末期の政治的混乱を招き、それはやがて朝鮮そのものの滅亡、その後の日本統治時代をもたらす結果となりた。

大院君は詩文・書画共に優れ、特に蘭画を能くし、大院君の号である石坡にちなみ「石坡蘭」と称せられ、清国までも知られていました。ちなみに景福宮の再建にあたり、蘭画を多数描いて売りその資金捻出にあてられました。

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