迫間房太郎東萊別邸 






 迫間房太郎(はさまふさたろう)は和歌山県那賀郡池田村(ながぐんいけだむら)の出身で、大阪の巨商五百井長兵衛(いおいちょうべえ)の手代になり、五百井長平(ちょうへい)釜山支店の支配人となって朝鮮に渡り、のち独立して釜山水産株式会社を設立している。そして釜山倉庫株武会社を作り、ロシアのウラジオストックにも出店を設け、他にも米種改良に努め朝鮮米の商品化を向上させたり、貿易商や土地家屋の賃借で巨富を築き、大池忠助(おおいけちゅうすけ)と共に「釜山の二大資産家」と呼ばれていた。他にも釜山土地会社、釜山商業銀行 、朝鮮貯蓄銀行釜山電灯、朝鮮瓦斯(がす)電気の社長や重役を務めている。また公共の利益を興すため多くの釜山公会堂などの建設にあたり多額の寄付を行い、紺綬褒章等の栄誉を受けている。なお房太郎はロシアが馬山に根拠地を作ろうとした時、主な土地を買い占めロシアの基地建設を妨害したことが日露戦争の勝因の一つとなったとされ勲六等瑞宝章が贈られている。







聿斎の三度にわたる渡韓

 聿斎は家元預りとなった明治42年(1909)、大韓帝国の釜山に迫間房太郎の東萊の別邸設計並びに建築のため渡韓している。この年は日韓併合の前年にあたり未だ大韓帝国と呼ばれ、パスポートの必要な時代であった。当時、内地から韓国に設計のために赴くなど異例の事であった。

 ちなみに、聿斎は生涯に3度、設計・建築のために朝鮮に赴いている。その第1回が前出の迫間房太郎の別邸の建築であり、第2回が明治45年(1912)の京城(現ソウル)、大正2年(1913)秋、朝鮮銀行副総裁の水町正(みずまちただし)の屋敷の設計建築のため、京城に渡っている。


東萊別邸

 その後、迫間房太郎の東萊とうらい別邸は数奇な運命をたどり、現在は東萊別荘という韓国式料理店として残されている。昭和20年(1945)8月15日の終戦の時点でこの別邸には四男武雄の妻妹背(いもせ)セイさんが一人暮らしていた。

 その後、妹背さんは日本に引き揚げ、東萊の迫間邸は進駐軍の司令官宿舎に接収された。朝鮮戦争が勃発した時には釜山が臨時首都となったため(1950〜53)副大統領の官邸となり、その後、民間に払い下げられ高級料亭東萊別荘となり今日に至っている。なお東萊別荘にはローラ・ブッシュアメリカ大統領夫人はじめ多くの著名人が訪れて韓国料理を堪能している。また、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王が宿泊し、宮が使用した立派な石造りの浴槽があるということで有名である。ちなみに、私は戦前・終戦の迫間家とこの別邸の貴重な話を、当時90歳であった大阪府岬町の妹背セイさんからうかがうことができたことを付け加えておく。


現在の迫間房太郎邸

 東莱は、朝鮮王朝時代には東莱府という役所が置かれたところで、古来、良質の温泉で有名な湯治場として知られていた。本格的に温泉地として整備されたのは日本統治時代のことで、鉄道が敷かれると多くの日本人がこの地に居を構えた。また、多くの日本人利用客が訪れた温泉街としてにぎわった地である。

 迫間房太郎はこの東萊の地に、敷坪3000坪、建坪200坪の純日本式木造二階建の別邸を営んだ。瓦に至るまで日本から建築資材を取り寄せ、大工や左官などの職人も日本から呼び寄せて建築された物件である。

 現在の東萊別荘は、漆喰の築地に囲まれ、表門をくぐると石畳が敷き詰められ、邸内に入るとやがて趣のある重厚な日本家屋と立派な車寄(くるまよせ)と玄関が目の前に現れる。進駐軍司令官の宿舎であった時、アメリカ人が使用するにあたり、一階の広間と次の間の壁は取り除かれ、土足のまま使用されることになる。現在二階は畳敷きの部屋が残され、一階はオンドル部屋に改造されている。広大な庭園は木々が生い茂り、池を配したもので、一部韓国式の建造物が立てられているが、聿斎が設計・作庭した当初の姿が残されている。



残された聿斎の図面


 聿斎の描いた詳細な図面は残されていないが、大まかな平面図及び全体と屋根の図が残されている。後に改造されることになるが、今日の迫間邸の一階部分の図面で、それを元に当時の姿を検討してみる。