初釜で桂盆に載せて書院に飾った小堀宗中の箱書きになる加茂川石「逢坂山」です。箱の甲に「逢坂山 加茂川石」内側に、
君が代に逢坂山の石清水木隠れたりと思ひけるかな
と記された色紙が貼られています。そして石の裏側には金泥で「逢坂山 政廣」と認められています。
小堀宗中は遠州流8世で、6世政寿(まさひさ)の子。はじめ政保、のちに政廣、政優(まさやす)と名のり、通称を大膳、宗中・和翁・大建庵と号しました。7世政方(まさみち)が伏見奉行在職中に伏見義民による決起事件があり、それにより不正や服務違反などが幕府の知るところとなり小堀家は改易となり、近江小室藩も廃藩となりました。その後、政優が旗本として小堀家の名跡を再興したことから小堀家中興と称されています。
この和歌は『古今集』の壬生忠岑のもので、今上天皇(醍醐天皇)の御代に巡り合えたことを、本当に嬉しく光栄に思っております。私のように低い身分の者は、逢坂山の石清水が木陰に隠れているように、終生埋もれたままだと考えておりました。という意味の歌です。
この石も宗中に巡り合ったことにより、終生埋もれたままの単なる加茂の川原に転がっているゴロタ石だったものが、宗中が取り上げれて「逢坂山」という銘の盆石になったことで立派な道具になったのです。まさに忠岑の歌のように。
宗中のこの機転のきいた命銘はほんとうにお見事というか、絶妙というほかありません。
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