昭和5年(1931)春、聿斎は貞明皇后より拝領した一代限りの名「宗泉」と改めた。大宮御所の秋泉御茶室(しゅうせんおちゃしつ)の御下命と、利休居士をのけてそれほど類を見ない宮中からの称号御下賜という栄に浴したことにより、聿斎の地位はこれまで以上に高まったようで、設計と作庭の依頼がそれまでに増して多くなった。
昭和6年(1932)5月には、河内藤井寺(かわうちふじいでら)の道明寺(どうみょうじ)書院座敷を設計・竣工している。当時の住職六条照伝(しょうでん)は聿斎の門人であり、またその信徒には聿斎の門下の有力者が多数いた。そうした人たちの影響もあり聿斎に白羽の矢がたったものと思われる。また六条照伝の実家が子爵の六条家であることから、大宮御所の秋泉御茶室の御下命を受けた聿斎が設計・施工するのが最もふさわしいということで選ばれたようである。なお、秋泉御茶室で用いた唐紙(からかみ)の控えなども御許しをもらった上でこの書院の各所に用いられている。そういう意味では、本歌の秋泉御茶室は戦火に焼失してしまったが、その一部は今日も道明寺 書院によって大切に守られ、同寺の書院に生き続けているのである。
庭は後に手を加えられていて若干趣を異にしているが、建物全体はほぼ創建当時のままである。全体が入母屋造で、瓦葺きの大屋根。下屋したやは軒先を銅板一文字葺どうばんいちもんじぶききとして、重厚な建物であるが全体に軽やかな雰囲気に仕上げている。茶室側も瓦葺きで軒先を銅板葺きとしている。
一階は10畳の広間と同じく10畳の次の間、6畳の茶室、水屋からなり、2階は階段を上がったところに2畳の踊り場と8畳と6畳の部屋で構成されている。
10畳の広間は1間半の床と1間巾の付書院(つけしょいん)を伴う書院造である。全体に柱は3寸8分角で、床柱は4寸2分角の松材。高さ4寸2分、巾3寸の真塗床框(しんぬりとこがまち)が用いられ、勝手付の壁面に正方形の格子からなる長方形の窓が取られている。広間と次の間の間の鴨居かもいの上の欄間(らんま)は長方形の空間を縦横に半分に割り、その空間の左右の角から斜めに板の部分と空白の部分を組み合わせた大変モダンなものである。その下には秋泉御茶室で用いられた亀甲模様の紅唐紙の襖が2間半巾に4枚はめられている。庭園に面したガラス障子と広間と次の間の障子との間を畳縁が囲むように敷かれている。
次の間は8寸高の位置に1間巾の地板を入れ、磨き丸太の床柱を立て、全体に回された長押なげしの下に落掛おとしがけが付けれている。通常は床の上に長押は付けないのが約束で異例のものである。これは広間の床に対しての脇床の意味合いがあると考えられる。そして1間巾に同じく秋泉御茶室の唐紙を用いた2枚の引違いの襖が立てられ、その左側を茶道口とし、床前に半分かかる畳を点前座とし四畳半切の炉が構えられている。これは広間に座る客に対して、次の間で謙虚な姿で亭主が茶を点ててもてなすという意図が込められていると思われ、古い時代の趣を残した構えである。
6畳の茶室は塗框の台目床で、磨丸太の床柱が立てられている。南と西の壁面にそれぞれ引き違いの腰板の付けられた貴人口(きにんぐち)が設けられ、その上には長方形の下地窓が空けられ、点前座側の壁にも下地窓がある。茶道口は方立かただての太鼓襖(たいこふすま)、給仕口は2枚の引き違いの吉祥草(きっしょうそう)模様の唐紙の襖である。天井は後に手が加えられているが、元々は野根板(のねいた)天井で女竹(めだけ)を用いて押さえている。通常、女竹の野根板押さえは1本または2本を繰り返すが、ここでは1本と2本を交互に繰り返して変化をつけている。
道明寺 書院は菅原氏の氏寺で、菅原道真の叔母覚寿尼が住職を勤めた寺である。そうしたことから道真を祭神とする天満宮が建てられ、明治の神仏分離により、寺と神社に分かれて今日に至っている。なお、同寺は代々公家の子女が住職となり、皇室とも縁が深く、そうしたことも踏まえて聿斎はこの書院を設計・建築したものと考えられる。
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