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執筆者の写真木津宗詮

都忘れたなづくるも憂

いかにして契りおきけむ白菊を

都忘れと名づくるも憂し


承久の変に敗れて佐渡に流された順徳上皇の御製です。配流の島で父帝が愛された白菊の花を「都忘れ」と名付けて愛着することを、いかなる因果の巡り合わせかと嘆じています。

承久の変で幕府に敗れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐国に流されました。

佐渡に配流となった順徳上皇は在島21年、和歌と仏道に打ち込む歳月を過ごしましたが、仁治3年(1242)9月12日、46歳で崩御されました。

平経高の日記『平戸記』の同年十月十日条に、「御帰京事思食絶之故云々」とあり、都恋しさに耐えきれず絶食の果ての自殺されたと伝わっています。

順徳上皇は、父帝が離宮を営まれた水無瀬の里をこよなく愛され、殊の外菊を好まれた父帝を偲び、佐渡の行在所に咲く可憐な野菊を「都忘れの菊」と命名したとされています。この都忘れの菊はのちに佐渡より水無瀬神宮に移植されたものとされています。

水無瀬神宮様の格別のご高配により、この都忘れの菊をお分けいただきました。まことに清楚で品のある菊です。なお、花入は8代家元一啜斎作になる輪無二重切花入「村時雨」です。


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