木津家初代松斎宗詮は大阪の浄土真宗願泉寺に安永6年(1777)に願泉寺35世時龍と貞光との間に生まれ、のち武者小路千家の茶匠となりました。 願泉寺は寺伝によると、小野妹子の八男多嘉麿義持(たかまろよしもち)が、用明天皇2年(587)、崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋の間に武力闘争が起きた際、義持は戦功を立て、その恩賞として河内国日下(くさか)に田地七百代を賜り、その地に住しました。この戦いで、聖徳太子が白膠木(ぬるで)の木を伐って、四天王の木像を造り「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔を建てる」という誓願を立てました。その甲斐あって、崇仏派の蘇我氏が勝利し、その6年後に聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を建立しました。諸国から建立用の材木が義持の屋敷の近くに集積され、これが地名の「木津」の起こりとなりました。木津は四天王寺建立の材木の集積される港の意味です。義持はその木津の地に無量寿院(むりょうじゅいん)を建てその別当職に任じられ、また日下の姓を名乗ったとあります。 その後、願泉寺は天台宗となり、21世秀意は天台座主慈円(じえん)に師事しています。27世浄教(じょうきょう)は比叡山で10年あまりにわたり研鑽し、下山して願泉寺への帰路、本願寺8世の蓮如(れんにょ)に遇い、そのすすめで浄土真宗に改宗しました。29世乗空(じょうくう)の代に、応仁の乱による兵火で願泉寺は灰燼に帰し、永正4年(1507)に堂宇を再建しています。 30世教龍(きょうりゅう)は、現在大阪城にあった石山本願寺の十世証如(しょうにょ)に仕えました。31世定龍(じょうりゅう)は、本願寺11世顕如(けんにょ)の信任も厚く、石山本願寺に詰める定衆として仕え石山合戦の折には多大な功績をあげています。その功を賞して本願寺12世准如(じゅんにょ)は本願寺の「願」の字を許し、寺号を「願泉寺」と改め、「日下山願泉寺」と称し、石山合戦で焼失した伽藍を慶長2年(1597)に復興しています。 定龍は茶の湯を嗜み、紹鷗や利休と交流しました。伊達政宗とは特に親しく、元和元年(1615)大坂夏の陣のあと、帰国にあたり、滞陣中に建てられた書院「蔽芾堂(へいひどう)」と茶室「泰慶堂(たいけいどう)」、庭石までも定龍に贈ったとされています。 昭和12年(1937)国宝に指定されますが、惜しくも昭和20年(1945)に空襲で焼失してしまい、庭園のみ旧態を残して現存しています。
往時の願泉寺書院と茶室・庭園
現在のt願泉寺庭園
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