花蹊は教育者としてだけでなく、日本画家・書家としての側面も著名である。明治5年(1872)と26年(1893)に明治天皇の御前揮毫の栄誉を賜っている。中之島在住時分の花蹊は、茶の湯だけでなく、得浅斎と画においても関わりが深かった。文久元年(1861)5月28日、漢学の師である後藤松陰(ごとうしょういん)の梶木町御霊筋西南角の塾の帰りがけに「木津さまへ寄、香合の菊認」とある。他にも「木津宗隆さまの木刀に黒漆にて画認」とか、「木津さまの銘酒入認る」とか「地袋落款致」「帛紗下絵して梶木町へ持参する」等の記述があり、木津家でしばしば得浅斎の依頼による揮毫をしている。
また、文久2年(1862)7月17日。得浅斎は花蹊をわざわざ木津家に呼び、円山応挙の秋草の屏風を書写させている。ほかにも「鶴の香合写し」「雷の軸拝見致し候」など、得浅斎は花蹊の画業の足しになるように所蔵の作品を見せている。
そして、得浅斎は門人の田淵九八郎の揮毫や得浅斎の実家である高砂の善立寺の画帳や陣羽織の揮毫の仕事等を花蹊に周旋していた。また、これらの揮毫の具体的な相談を受け、指導もしていたことがわかる。
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