2代得浅斎宗詮13 跡見花蹊と得浅斎の交流

 『跡見花蹊日記』には、茶の湯以外での花蹊と得浅斎との交流が多く認められている。文久元年(1861)の6月15日の項には、次のような記述がある


 私、木津さまへ参り、お千枝さまの舞ノ地

 致し、暫遊んで帰り候。


お千枝とは明治12年(1879)に亡くなった遊心と考えられる。この日、花蹊は木津家で舞の伴奏音楽である地方の稽古をお千枝に付け、その後しばらく遊んで帰宅している。また、そして得浅斎のもう一人の娘でお蓮とも懇意で、「お蓮さまと三庭見物に歩く、今年はよほど淋しく候也」と「三庭」は不明であるが庭園と思われ、二人で見物に行っている。そしてこの年の風情が例年に比べ寂しかったと記している。他にも、「お千枝さまと同道にて細矢へ参り、お茶呼れ」お千枝とともに得浅斎の門人細矢宗祝を訪れ茶を飲んでいる。そして、花蹊は後藤の帰りに木津を訪れ、「本木津さまへ預け」て遊びにいったり、「七ツ時迄遊ふ」とか「木津宗詮へ行、有所遊にて馳走、日暮て帰り候」と日記にはしばしば木津で遊ぶとの記述があり、日頃絵の染筆や、塾での講義、また自身も後藤松陰のもとで漢学を学ぶ花蹊にとっては、木津の娘たちと遊ぶことで気晴らしをしていたと考えられる。そしてある時は、「色々京師の面白き咄し致し、コテコテして終日暮す」とあり、得浅斎が京都の面白い土産話を花蹊にし、終日、濃厚な会話をしている。ちなみに。「コテコテ」とは程度が甚だしいとか、嫌という程とか濃いとかの意味の「こってりした」という形容詞からきていて、「こってりこってり」が詰まった好意的なニュアンスの上方の言葉である。花蹊は茶の稽古や絵の話しだけでなく、得浅斎と世間話などもしていた。

 そして得浅斎の娘お蓮の嫁入りの記述がある。お蓮は表千家の吸江斎の後見を勤めた2代住山楊甫(ようほ)の息二代江甫(こうほ)の室となり。明治5年((1872)5月14日に亡くなっている。8月8日の「七ツ時」、すなわち午後4時前に、木津家に呼ばれ、早々に赴いたところ、この夜お蓮の嫁入荷物が住山家に運ばれるので、描き上がったばかりの雛絵を持参し、杉戸の絵を認めた。その場には木津の社中の加島屋の隠居広岡と米夫妻と木津家の代稽古の堀宗三、大仙なる人物と森はる子、そして仲人の勘助が同席していた。細矢宗祝の点前で茶を飲み、その後、一同祝酒を大騒ぎで飲んでいる。そして翌9日、日暮れから木津家に赴き、この夜お蓮の嫁入りに立ち会い、嫁入り終了後に帰宅している。今日迄、蓮が住山に嫁いだこと以外何一つ伝わっていなかったのであるが、花蹊の日記には婚礼の日にちや媒酌人の名前が記されていて、誠に貴重な記録である。

 花蹊と得浅斎の関係が誠に懇意だったことがわかる記述として、「木津さまへ参り、風呂戴」とか「風呂入に木津さまへまいり」とあり、木津にしばしばもらい湯していた。今日のように風呂が大半の家に普及している環境からは想像できないことであるが、昔は風呂のない家が多く、ごく親しい家に風呂に入らせてもらう家が多かった。また、三之助(跡見重威)を同道して木津に赴き、深夜三更(さんこう・午前零時から2時間・子の刻・丙夜)まで酒を饗され、下男を木津に一宿させてもらっている。他にも「御酒吸」などと記されていて、しばしば酒飯を木津でよばれている。

 そして、文久2年(1962)の7月8日には、前日より腹痛に苦しんでいた花蹊は、木津の得浅斎の息子の孝助に木津村の母を呼びにいってもらっている。そして7月10日には、体調を崩した花蹊が、孝助に木津村の母幾野を呼びにいってもたったところ、幾野も病気で中之島の跡見家に出てくることができない状態であった。木津家からは幾野の病状の報せもないので、具合の悪い花蹊自ら木津家に幾野の病状を訪ねに赴いた。そうしたところ幾野の病状も芳しくなく、花蹊の体調も悪かったので、そのまま木津家で寝たり起きたりし、昼食に粥をよばれた旨が記されている。また、この日と翌日は、一人暮らしの花蹊を気遣ってお千枝が花蹊の家に2日間泊まっている。他にもお千枝は花蹊宅に泊まることがしばしばあったようである。そして孝助も花蹊の用事をつとめることがあったようである。ちなみに、孝助は、文久2年(1862)の7月26日に、「梶木町より孝助死去しらせに参る」と孝助が此日に亡くなっていて、重敬が木津家に弔問に赴いている。

 文久2年(1862)8月5日に、「梶木町十七吉子の六日さりにて、父さま行れ、一更ニ帰られ候」とある。8月1日に3代聿斎宗泉(宗詮)が誕生している。この記述の十七吉となきちは3代宗詮の幼名である。「六日さり(だれ)」とは、昔は出産を穢れの一つとされ、産後3日目に産婆または身内の女性が産室で木の盥の湯に塩を入れて身体を拭い、6日目には身体を洗い、そして赤ん坊の産毛を剃り、名付けを行った。これを「六日さり(だれ)」といい、親戚や近所・知人はこの日をめどに祝儀の品を持参して祝いを行った。この日は重敬が十七吉出生の祝いに木津家を訪れ、祝いの膳を食べて一更(午後7時から8時までの間)に帰宅している。なお、十七吉という名前のいわれは、得浅斎の17番目の子という意味で命名されている

 文久2年(1862)10月24日、花蹊はお蓮やお千枝と細谷宗祝の茶事に招かれている。この日の朝、花蹊は中之島の跡見塾で子供たちに講義をし、辻家で身ごしらえをして梶木町の木津家に赴き、お千枝とお蓮同道で、細谷家に赴き、正午の茶事に参席した。花蹊が正客でお千枝が次客、お蓮が詰を勤めている。そして「後、薄茶手前、千枝さま遊し候。誠におもしろき事也」とあり、濃茶のあと、お千枝が薄茶点前をしている。花蹊はこのことがよほど面白かったようである。他にも木津の二人の娘たちと稽古をしたり、花月をしたりしている。

 幕末になると軍家の大奥や大名家の女性たちの間では茶の湯を嗜むことが広く行われ、武者小路千家でも、高松松平家の妻妾や女中の入門や許状が与えられた記録が残され、また一啜斎の伝書『宗守流茶道伝』には「女中点前」として女性の点前について記したものがある。また、石州流の大口樵翁(おおぐちしょうおう)が『刀自袂』を著し女性の茶の湯を奨励し、武者小路千家では、直斎の室宗真(そうしん)や、一条家で献茶をつとめ家元代行的な活動した好々斎室の宗栄が知られている。花蹊が大坂で活動していた幕末期には、多くの富裕町人たちの子女も茶の湯を嗜んでいたようで、女性のみで茶事に招かれているこの記録はまことに興味深いものがある。又、彼女たちにとっての茶の湯は、のちに花蹊が東京の跡見女学校で女性の嗜みとして「点茶」という科目を設け、女性の行儀作法ために茶の湯を学ぶというのではなく、女性の娯楽が制限された時代の楽しみの一つであったことがわかる。

そして、得浅斎とも直接行動を共にしている記録が残されている。その一つが文久二年(一八六二)八月二十八日、七ツ時(午後四時)前に、得浅斎が願泉寺に参拝し、跡見さま(唯専寺)に立寄り院主と話しをし、花蹊は得浅斎とともに梶木町の木津家まで一緒に帰り、多分この夜は木津家に泊まっている。

また、文久三年(一八六三)、徳川家茂が上洛した時に孝明天皇が攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社に行幸した。その時、花蹊は得浅斎やお千枝、お蓮らと見物のために上洛している。三月五日の朝、得浅斎が京都から戻り、花蹊を呼び、京都の父重敬の話しを伝えた「此十一日上様、将軍様御供にて加茂へ御参りあらせられ候ゆへ、右様な事は稀なる事、中々なき事ゆへ、拝見に上京する様申居られ候」と、この十一日に孝明天皇が将軍徳川家持茂を供として下上賀茂神社に参詣する。このようなことは滅多にないことなので、ぜひとも上洛して拝見するようにとの内容であった。そして八日の朝、花蹊は梶木町の得浅斎のもとを訪れ、得浅斎と上京の相談をし、薄茶を一服飲んでいる。その場には前日から大坂に出てきていた堺の跡見親族吉井と千草屋平瀬家の別家の赤松道堅が同席していた。それから辻家に教えにいき、下の弟の元之助(跡見愛四郎)が呼びにきたので、早々に帰宅したところ、木津村の智明院と美つへなる人物が来ていて、早速に旅支度をして隣家の豊島、元之助、前出の智明院、美つへ、因州から来ていた十助同道の上、昼頃大坂を出立し、日暮れに中城(茨木市中ノ条)に到着し、田尻氏の家に一宿している。十二日には得浅斎たちと下鴨神社に行幸の跡を見物に行っている。得浅斎はこの前代未聞の出来事を見るために三人の子供たちを伴っての上洛であった。

花蹊は得浅斎や田淵らと頼母子講たのもしこうをしていた。頼母子講とは、講員が掛金を定期的に出し合い、入札または抽選で毎回その中の一人が交代で所定の金額を受け取る組織である。

以上のように、『跡見花蹊日記』から、花蹊は得浅斎に茶の湯を師事するだけではなく、その娘たちと姉妹のように親しくまじわり、木津家と家族同様の交際をしていたことがわかる。若い娘がけなげに一人暮らしで中之島の塾で教授・運営している花蹊を、得浅斎は娘のように慈しみそしてかわいがり、跡見家と木津家は家族的な付き合いをしていたのである。