2代得浅斎宗詮14 跡見花蹊と得浅斎の交流1

 『跡見花蹊日記』には、茶の湯以外での花蹊と得浅斎との交流が多く認められている。文久元年(1861)の6月15日の項には、次のような記述がある


 私、木津さまへ参り、お千枝さまの舞ノ地

 致し、暫遊んで帰り候。


お千枝とは明治12年(1879)に亡くなった遊心と考えられる。この日、花蹊は木津家で舞の伴奏音楽である地方の稽古をお千枝に付け、その後しばらく遊んで帰宅している。また、そして得浅斎のもう一人の娘でお蓮とも懇意で、「お蓮さまと三庭見物に歩く、今年はよほど淋しく候也」と「三庭」は不明であるが庭園と思われ、二人で見物に行っている。そしてこの年の風情が例年に比べ寂しかったと記している。他にも、「お千枝さまと同道にて細矢へ参り、お茶呼れ」お千枝とともに得浅斎の門人細矢宗祝を訪れ茶を飲んでいる。そして、花蹊は後藤の帰りに木津を訪れ、「本木津さまへ預け」て遊びにいったり、「七ツ時迄遊ふ」とか「木津宗詮へ行、有所遊にて馳走、日暮て帰り候」と日記にはしばしば木津で遊ぶとの記述があり、日頃絵の染筆や、塾での講義、また自身も後藤松陰のもとで漢学を学ぶ花蹊にとっては、木津の娘たちと遊ぶことで気晴らしをしていたと考えられる。そしてある時は、「色々京師の面白き咄し致し、コテコテして終日暮す」とあり、得浅斎が京都の面白い土産話を花蹊にし、終日、濃厚な会話をしている。ちなみに。「コテコテ」とは程度が甚だしいとか、嫌という程とか濃いとかの意味の「こってりした」という形容詞からきていて、「こってりこってり」が詰まった好意的なニュアンスの上方の言葉である。花蹊は茶の稽古や絵の話しだけでなく、得浅斎と世間話などもしていた。

 そして得浅斎の娘お蓮の嫁入りの記述がある。お蓮は表千家の吸江斎の後見を勤めた2代住山楊甫(ようほ)の息二代江甫(こうほ)の室となり。明治5年((1872)5月14日に亡くなっている。8月8日の「七ツ時」、すなわち午後4時前に、木津家に呼ばれ、早々に赴いたところ、この夜お蓮の嫁入荷物が住山家に運ばれるので、描き上がったばかりの雛絵を持参し、杉戸の絵を認めた。その場には木津の社中の加島屋の隠居広岡と米夫妻と木津家の代稽古の堀宗三、大仙なる人物と森はる子、そして仲人の勘助が同席していた。細矢宗祝の点前で茶を飲み、その後、一同祝酒を大騒ぎで飲んでいる。そして翌9日、日暮れから木津家に赴き、この夜お蓮の嫁入りに立ち会い、嫁入り終了後に帰宅している。今日迄、蓮が住山に嫁いだこと以外何一つ伝わっていなかったのであるが、花蹊の日記には婚礼の日にちや媒酌人の名前が記されていて、誠に貴重な記録である。

 花蹊と得浅斎の関係が誠に懇意だったことがわかる記述として、「木津さまへ参り、風呂戴」とか「風呂入に木津さまへまいり」とあり、木津にしばしばもらい湯していた。今日のように風呂が大半の家に普及している環境からは想像できないことであるが、昔は風呂のない家が多く、ごく親しい家に風呂に入らせてもらう家が多かった。また、三之助(跡見重威)を同道して木津に赴き、深夜三更(さんこう・午前零時から2時間・子の刻・丙夜)まで酒を饗され、下男を木津に一宿させてもらっている。他にも「御酒吸」などと記されていて、しばしば酒飯を木津でよばれている。

 そして、文久2年(1962)の7月8日には、前日より腹痛に苦しんでいた花蹊は、木津の得浅斎の息子の孝助に木津村の母を呼びにいってもらっている。そして7月10日には、体調を崩した花蹊が、孝助に木津村の母幾野を呼びにいってもたったところ、幾野も病気で中之島の跡見家に出てくることができない状態であった。木津家からは幾野の病状の報せもないので、具合の悪い花蹊自ら木津家に幾野の病状を訪ねに赴いた。そうしたところ幾野の病状も芳しくなく、花蹊の体調も悪かったので、そのまま木津家で寝たり起きたりし、昼食に粥をよばれた旨が記されている。また、この日と翌日は、一人暮らしの花蹊を気遣ってお千枝が花蹊の家に2日間泊まっている。他にもお千枝は花蹊宅に泊まることがしばしばあったようである。そして孝助も花蹊の用事をつとめることがあったようである。ちなみに、孝助は、文久2年(1862)の7月26日に、「梶木町より孝助死去しらせに参る」と孝助が此日に亡くなっていて、重敬が木津家に弔問に赴いている。

 

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