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執筆者の写真木津宗詮

2代得浅斎宗詮2 茶の湯修行

 家元への入門並びに許状の台帳によると、得浅斎は天保6年(1835)、14歳の時に武者小路千家九代好々斎に入門している。なお、好々斎はその10日後に41歳で没しているので、好々斎に直接茶の湯の指導を受けることができなかったと思われる。いずれにしろ好々斎の最後の弟子の一人であったといえる。

 同10年(1839)3月に小習六ヶ条と、唐物点・茶桶箱、同年10月には台天目と盆点・乱飾、そして流儀の最奥義である真台子の相伝を18歳で受けている。松斎はその経緯について「諸事扣」に、利休の二百五十年忌法要と追善茶事を無事に終えることができ、家元より松斎の尽力に対する礼として特に得浅斎に真台子の許状が贈られたとある。そして「宗守皆傅被下候ても、是計り表向計りの事ニて、眼病の事ニ御座候間、拙より倅宗隆ヘ、篤と皆傅致置候得ハ、実ニ家元の為ニ御座候故、相傅致置呉候様、御頼申候事なりと、」とあり、松斎が得浅斎に念を入れてじっくりと皆伝することが、家元のためにもなると筋道をつけて申し入れられたことにより受けたとある。これは好々斎が一啜斎に先立ち41歳で亡くなり、幼い以心斎が病で目が不自由になるなど、不慮の出来事に対する「危機管理」としての処置であったようである。

 『山村日記』の天保10年(1839)に、得浅斎が初めて催した茶事の会記が記録されている。それによると、得浅斎のそれまでの茶の湯研鑽の発表の意味があった茶事のようである。初風炉の茶事で、特に花入は得浅斎にとって格別思いの深い竹一重切「雛鶴」が用いられている。この花入は得浅斎が木津家に入家した折、一啜斎から祝いとして到来したものである。この茶事に対する思いをうかがうことができる。得浅斎は、直接には松斎の膝下でみっちりと茶の湯の修行を積んだのである。

 なお、得浅斎は大徳寺447世・玉林院ぎょくりんいん13世の拙叟宗益(せっそうそうえき)に参禅し、得浅斎の斎号を与えられている。「得浅」の出典は『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』の「若大水所漂、称其名号、即得浅(若もし大水のため漂ただよわされんに、其の名号みょうごうを称えれば、即すなわち浅き処を得ん)」である。

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