2代得浅斎宗詮4 紀州家仕官

 得浅斎も松斎同様紀州家に仕官している。その時期の詳細は不明であるが、『高松侯上使日記』の嘉永7年(1854)1月二25日に「宗隆主人屋敷ニ出勤」とあり、どのような役職に就いていたかはわからないが、この時点で確かに紀州家に仕えていたことがわかる。

 文久3年(1863)秋に写された『文久元紀士鑑』に、「五人扶持、木津宗隆、大坂住御用勤」とあり、大坂在住で御仕入方(おしいれかた)の御用を勤めていた。また得浅斎所持の瀬戸水指の箱書に、「慶応元丑年冬、中納言様御屋鋪ニテ、幸橋御屋敷ニテ、長々御□座中、御数寄屋詰相勤、其節途中ニテ求之所持候者也」とあり、慶応元年(1865)の冬には御数寄屋に詰めて茶の湯に関わる業務にあたっていた。

 明治23年(1890)12月に調査した『和歌山御家中御見以上以下伊呂波寄惣姓名調』に、「七人扶持、中之間席、小十人御仕入方勤、木津宗詮」とある。「中之間席なかのませき」というのは、紀州藩では御目見以上の一番低い格式にあたる。「小十人(こじゅうにん)」は名称だけで実務はほとんどない役職のことをいい、「御数寄屋詰(おすきやづめ)」からふたたび「御仕入方」の任にあたっていた。藩士のランクを上・中・下と分けるとすれば、表千家は中級で、木津家は下級の藩士であった事がわかる。

 このように得浅斎も松斎同様大坂在住として紀州家に仕え、御用勤・御数寄屋詰・小十人御仕入方を歴任したことがわかる。そして和歌山はじめ京都・江戸に赴いてその勤めを果たしていた。

 なお、御仕入方とは、紀州藩内各地の産物を買いあげて諸国に販売する部署のことである。大坂・江戸・近江・京都・伊勢・美濃に出張所を置いて、紀州名産の木材・木炭・蜜柑・酒・醤油・紙・蝋燭などを販売して大いに利益をあげていた。さらに御仕入方は三井家と組んで長崎貿易に投資して裏の利益をあげ、紀州家の貴重な財源になっていた。得浅斎は大坂在住で御仕入方として御用金調達運用等に関わっていたようである。安政5年(1858)10月に得浅斎は銀二貫目、11月には銀一貫目を調達している。現在の金額に換算するとおよそ300万円位とのことである。

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前出の通り、松斎(歓深院降龍)が安政2年(1855)の元旦に亡くなり、2月5日に得浅斎は喪主として本葬を勤めている(『鐘奇斎日々雑記』)。この時、得浅斎は36歳の働き盛りであった。同十二日には恒例の利休忌を卜深庵で勤めている。得浅斎は喪中にも関わらず、流祖利休の追善の茶会を催している。 そしてこの時期の得浅斎は前後して多くの不幸に見舞われている。同年3月2日には義母の柳(教深院貞寿)が松斎の後を追

得浅斎は治宝の信任が厚く寺社奉行や勘定奉行等の要職を歴任し、紀州藩の藩政改革を推進し、藩内の尊皇論を主導した伊達千広(だてちひろ)・宗広(むねひろ)と親交を結んでいた。なお、宗広は治宝没後、その側近が一斉に粛正された時、田辺(和歌山県田辺市)に10年近く幽閉され、のち脱藩して尊皇運動に参加している。その千広の六男が坂本龍馬の海援隊の一員で勤皇の志士であった睦奥宗光(むつむねみつ)である。ちなみに陸