得浅斎は治宝の信任が厚く寺社奉行や勘定奉行等の要職を歴任し、紀州藩の藩政改革を推進し、藩内の尊皇論を主導した伊達千広(だてちひろ)・宗広(むねひろ)と親交を結んでいた。なお、宗広は治宝没後、その側近が一斉に粛正された時、田辺(和歌山県田辺市)に10年近く幽閉され、のち脱藩して尊皇運動に参加している。その千広の六男が坂本龍馬の海援隊の一員で勤皇の志士であった睦奥宗光(むつむねみつ)である。ちなみに陸奥は、維新後外務卿となり不平等条約改正に尽力している。得浅斎と千広の縁から、得浅斎も睦奥宗光と懇意な関係となっている。
千広が四天王寺の近く夕陽ケ丘の藤原家隆ふじわらのいえたか塚の柵門を建てる時、その寄付の依頼を得浅斎が受け、十両の資金を平瀬家から調達している。ちなみに、藤原家隆塚は、嘉禎2年(1236)に歌人藤原家隆が、浄土教の教えである「日想観(にっそうかん)」を修するためにこの地に移り住み、夕陽庵(せきようあん)を建てこの地で没し、家隆の墓と伝えられる塚である。千広は家隆への敬慕が厚く、明治初年に「自在庵(じざいあん)」を建て一時期この地に住んでいた。「夕陽ケ丘(ゆうひがおか)」の地名はこのことに基づいている。
得浅斎は夙に勤皇の志が厚く、勤皇の志士たちと深い交わりがあった。前出のように、得浅斎は伊達千広の縁から睦奥宗光と交流があった。国会図書館の憲政資料室に、伊達千広が、陸奥が加島屋長田作栄に金を融通してもらうにあたり、得浅斎に周旋してもらうように書いた書状である。得浅斎の勤皇活動の一端を伺うことができる。なお、松斎の実家である願泉寺の品を持ち出して金に替え、志士たちを支援したと伝えられている。
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