前出の通り、松斎(歓深院降龍)が安政2年(1855)の元旦に亡くなり、2月5日に得浅斎は喪主として本葬を勤めている(『鐘奇斎日々雑記』)。この時、得浅斎は36歳の働き盛りであった。同十二日には恒例の利休忌を卜深庵で勤めている。得浅斎は喪中にも関わらず、流祖利休の追善の茶会を催している。
そしてこの時期の得浅斎は前後して多くの不幸に見舞われている。同年3月2日には義母の柳(教深院貞寿)が松斎の後を追うように亡くなり、その葬儀を営んでいる(『鐘奇斎日々雑記』)。柳の没とは前後するが、同年の1月5日には実兄の権少僧都亮正(りょうしょう)が39歳で亡くなっている。ちなみに、亮正は天台宗で得度を受け、江戸目黒の成就院の住職となっている。同12月24日に松斎の一周忌を前倒しして営んでいる(『鐘奇斎日々雑記』)。そして弘化3年(1846)7月17日に長男透之丞(龍仙)が没し、嘉永6年(1853)8月6日には次女の妙仙、翌7年の6月23日には七女智仙、安政2年(1855)4月9日に八女智昇がそれぞれ流産で亡くなっている。このことから、当時、無事に出生する事がいかに困難であったかをうかがい知ることができる。同3年(1856)7月3日には九男の楊仙を亡くし、翌4年(1857)の8月30日に妻の雪(教信院貞龍)が河豚の中毒で亡くなり,9月5日に葬儀を行っている(『鐘奇斎日々雑記』)。なお、その後に後室として貞(信遵院貞賢)を迎えている。
このようにこの時期の得浅斎は身内を多く亡くすという不幸が続いていた。
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