この当時の得浅斎の茶事の記録が数点残されている。その一つに安政6年(1859)11月7日に平瀬露香以下7名に「小習(こならい)」の相伝茶事を行ったことが、平瀬露香の他会記『茶燕録』に記されている。紀州公から拝領の粟田焼の円香合で盆香合の点前をし、同じく松平不昧から拝領した楽山焼の大海茶入で長緒の伝授を、得浅斎が点前をして相伝している。なお、この大海は松平不昧が参勤交代の折、松斎が御国土産として拝領した茶入で、5代長岡住右衛門の作になるものである。後に得浅斎はこの茶入を華頂宮博経(かちょうみやひろつね)親王に「仙掌」と命銘してもらっている。銘の由来となる親王の詠草に、
手にとるも珍しきかな唐土のやそじの翁思ひ出つゝ
とあり、格別大きな茶入であることから中国の800年の齢を経た仙人の掌に思いを馳せたことからの命銘であったことがわかる。
「小習」とは軸飾(じくかざり)・壺飾(つぼかざり)・台調(だいしらべ)・盆香合(ぼんこうごう)・入子調(いれこしらべ)・長緒(ながお)の六つの相伝種目である。軸飾は、宸翰(しんかん)や巻止まきどめめに外題(げだい)のある特別な軸を用いるとき、初めから掛けておくのを遠慮して巻いたまま床に飾り、後に客の所望により客の前で開いて掛ける法のことである。壺飾は、茶壺を緒で飾る技術と茶壺の拝見の作法。台調は、濃茶に用いる茶碗が、貴人よりの拝領品や特にいわれのあるとき、木地の天目台に載せて茶を点てる時の主客の作法と、台に載った器物を安全に美しく扱う技術の修練。盆香合は、炭点前でいわれのある香合を用いる時、小型の盆に載せて使う。その時の主客の作法と、盆に載った器物の扱い方の修練。入子調は、濃茶点前でいわれのある茶入・茶碗・茶杓のいずれかを露骨に示さず、客にほのめかすときに行われる点前。そのいわれのある器物は、点前の進行中に自然とわかる仕組みになっていて、主客の働きかけの稽古がその目的となっている。長緒は、平たい茶入に添う仕帛は、口が大きく特に長い緒がつけて仕立てられている。その仕帛の扱いを修練する内容である。なお、現在、武者小路千家では真台子(しんだいす)と乱飾(みだれかざり)の二つの伝授は、家元直々に既に相伝を受けた者の立会のもと行われている。盆点(ぼんてん)・台天目(だいてんもく)・茶通箱(さつうばこ)・唐物(からもの)・小習は許状の取次者による相伝となっている。
ちなみに楽山焼(出雲焼)は、延宝5年(1677)、2代藩主松平綱隆(つなたか)の懇望で萩深川の陶工・倉崎権兵衛(くらさきごんべえ)が召し抱えられ、松平家別邸(お山)で焼成された陶器である。権兵衛は、伊羅保、斗々屋、刷毛目茶碗等の茶陶焼成に優れた手腕を見せた。2代は名工として名を馳せた弟子の加田半六(かだはんろく)が継承し、天明6年(1786)、4代半六の時代に御用焼物師を免職となって一時中絶した。6代藩主宗衍(むねのぶ)の命で布志名(ふじな)焼の陶工・土屋芳方(楽山焼歴代に加えられていない)が楽山焼に従事し、七代藩主であった不昧が、玉湯町の布志名窯の長岡住右衛門貞政(ながおかすみうえもんさだまさ)を起用し、楽山焼5代目として再興した。住右衛門は不昧の指導の下で特に茶陶にすぐれ、江戸大崎の松平家下屋敷の大崎御庭焼に従事し、不昧の意向による名器の写しや不昧好みの作品を数々制作し、楽山焼中興の祖と仰がれている。そして6代空斎以降は茶陶のほか京焼風の色絵陶器をさかんに作り、その後9代空右など多くの名工を生み出し、今日、12代空郷に至っている。
同じく露香の『茶燕録』に、得浅斎の催した同611月14日正午の茶事の会記が記されている。この会は特に趣旨が記されていないが炉開きの趣向の道具組である。茶席は「道安」とあり卜深庵で行われた茶事であることがわかる。卜深庵は現存せず、『茶間之雛形』に唯一記録されている。それによると、本勝手四畳向切道安囲水屋道庫の席であった。点前座向こうが壁を隔てて半畳の板間があり、そこに出入口があった。なお、卜深庵は松平不昧が松斎に授けた号で、「木津」の音読みが「ぼくしん」で、そこから「卜深庵」となった。
あ、なるほど、そのような来歴だったのですね❗